2009年6月5日金曜日

司法の「説明責任」

いわゆる足利事件と称する「冤罪」事件。DNA鑑定で「無罪」となった菅家さん。これまでも弁護側が求めて来たDNA鑑定をかたくなに拒んで来た裁判所。この結末を長引かせた原因は裁判所にあると。


科学捜査などということが盛んに言われ、テレビドラマでも科捜研の女なんて番組が見られ。日進月歩する科学の世界。なんだかだと屁理屈つけて再審を拒んできた裁判所。


きのうの釈放決定を受けてのコメント。「個別の案件についてコメントはしない」。門前払い。西松建設献金事件の検察も然り。いまはやりの言葉、「説明責任」があるのではと。


そもそもこの「説明責任」なる言葉。いつの頃から言われ始めたのか。なんでもかんでも説明責任。説明責任とは英語ではアカウンタビリティーというのだそうな。会計学用語。「政府は納税者に対して税金の使い道を説明する義務がある」というアメリカ民主主義の発想から来た言葉だとか。


だからメディアがなんでもかんでも説明責任って迫るのはおかしい。責任を問うのでなく、それを取材するのがメディア力。簡単に説明されるのを待っているんでは「発表」と同じ。


税金論とは違うが、同義として、公権力の行使にはこの「説明責任」はあって然るべきと。


菅谷さんは無期だったから晴れて釈放となったけど、この事件の経緯を伝える報道を見る限り、冤罪で死刑になった人だっていると思うのが世の感覚。なぜ新しい鑑定を取り上げようとしなかったのか。それを裁判官に聞きたい。説明して欲しい。だって、裁判員制度始まったんでしょ。裁判長の訴訟指揮に誤謬があっても裁判員はそれを指摘出来るのか。法廷の証拠だけで有罪決めて、あとから科学の力でそれが覆されたら・・・・。おっかなくってやってられないですよ。職業裁判官なら気持ちの切り替え出来るかもしれないけど一般市民では無理。一生重いものを背おって生きて行くことになる・・・。


暴論だけど警察、検察は犯罪人を「作る」ところ。どうやっても「こじつける」。それを見抜くあらゆる手だてを裁判官は身につけないと。


DNA鑑定という科学の進歩に驚くと同時に、ある意味恐ろしささえ感じると同時に、司法の在り方を根本的に見直さないといけない時代になったのだと。


この「事件」。死刑廃止論に拍車かけること間違いなし。またもや考える。「人が人を裁く」ということを。



“チェルノブイリ”異聞

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