今から50年前。1960年の今日、6月15日。安保闘争で樺美智子さんがなくなった日です。「アンポ反対。岸を倒せ」「安保反対」。連日国会議事堂を取り巻いたデモ。労働者や学生。国会議事堂の周りの道路は人で埋め尽くされていました。巨大なマグマがそこに存在しているような。
二十歳になっていない年齢の亭主もその中にいました。学生服を着て。コートで襟章を隠し。振り返ってみてなんでいたのかあの場所に。日米安保の何たるやをきちんと理解していたのかどうか。単なる反体制。若者が陥りやすい「流行病(やまい)」のようなものだったのか。誰に誘われた訳でもなく。誰にそそのかされたのでもなく、たしかに学校の中には立て看板が並び安保反対のシュプレヒコールに充ち満ちていたのではありますが。
もちろんいかなるセクトに属していたわけでも無く。ただ、その場に「行かなくてはならない」そんな"本能"があったのではないかと。
怖かったです。警官隊・機動隊。後ろの方にいたのがいつの間にか前面に押し出され。後ろから押してくるデモ隊。押し返そうとする警官隊の盾と警棒。そこそこ殴られて。怖くなって・・・。
亭主がいたのは議事堂の正面の道路。樺さんが亡くなったのは南通用門。デモに行く前に学校で呼び止められた先輩に言われた言葉。「お前は大事な存在なのだから行って欲しくはないが、行っても無茶するな」。その言葉を思い出してデモの列から抜けだし、日比谷公園で汚れた服を脱ぎ、職質に会わないようにして自宅に帰りました。自宅で聴いたラジオ。南通用門で東大生の樺美智子さんが死んだというニュース。衝撃でした。
樺美智子さんは勿論知らないひとです。ただ父上が本学の教授をされていた。樺教授は知っていた。ただそれだけのつながりなのに身近な人が死んだという思いと、そこから逃げ出した自分の不甲斐なさ。悩んだ時がありました。
それから数年後。南通用門の前の建物が職場となり。南通(そう呼んだのですが)の前を通る度に、見る度にこみ上げてきた複雑な感情。
そして今でも思うのです。あの時のあのエネルギーは何だのか、どこに消えてしまったのか。「安保反対」。そんな声はどこからも聞こえなくなった。少なくとも日本社会党という政党が消滅してからは。そして議事堂を取り囲むデモ隊もいなくなった・・・。
デモ隊少年は国会議事堂の中でお仕事をするようになった。あの日は雨だったのだろうか。それとも警官隊の放水によるものだたのだろうか。妙に寒かったような記憶があります。♪アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい♪。西田佐知子の歌が流れる度に1960年6月15日のボクを思い出していたものですが・・・。50年後。誰もが「日米同盟」を言う時代なのです。日米安保が日本の繁栄をもたらしたと確信している時代になったのです・・・。