2010年6月30日水曜日

ナショナリズムなのだ

サッカーW杯。パラグアイ戦。もちろん見ましたよ。自宅なんですが。無情なる幕切れ。悔しいとか残念とかいう気持ちよりも「淋しい」気分というのが正解か。もうあのメンバーの国際試合は見られないだろうから。岡田監督は引退とも言われるし、俊介ももどうなるか。中澤は、稲本は・・・。それぞれがそれぞれの所属チームで活躍はするのだろうけれど。


試合前の国歌。肩を組みながら選手の殆どが君が代を口ずさんでいた。これまでは歌っていなかった選手もいたのに。あの光景を見たとき、ボクは勝てると思ってしまった。もちろん相手チームは大声で歌っていたのですが。


あの光景みて浮かんだ言葉。「大声で歌え、君が代」(笑)。丸谷才一の名著「裏声で歌え君が代」をどう読むかは別にして。


国には国の旗が有り、国には国の歌がある。亭主は別に日の丸や君が代の礼賛者ではありません。いや、むしろ若い頃は、当時の若者にありがちだったように、常に君が代、日の丸に違和感を感じてきました。そこには多分、あの戦争の残滓を感じていたからかも。


サッカーだけではなく、オリンピックでも、フィギアスケートでも、スポーツの世界では国旗は付きものです。それは国威発揚という事だけではない。一つの旗の下に、共有の歌のもとに共にあるという事が士気を高め、自分のアイデンティティーを認識する・・・。


W杯。会場でも、日本国内のあらゆるところで、サポーターは日の丸を振り、ニッポンコールを繰り返していた。国と国との戦い。そこには自ずからナショナリズムが発生する。


ナショナリズム。いかにも右翼的な言葉ととられそうですが、さに非ず。民族主義とか国家主義とか、国民主義とか、国粋主義とかいろんな意味がありますが、ニュアンスは異なっていると思うのです。


サッカー選手もサポーターも、皆、一つになった。成れた。岡田ジャパン。チームの一体性を強調した。みんなでやるサッカーを目指した。そして、それに国民こぞって燃えた。「一つになった。一つになってやった。みんなでやった」。それに共感したから、PK戦で敗れて敗者となっても、誰も悪し様には言わない。感動をありがとうと健闘をたたえた。そして勇気と希望を貰ったと戦士達に感謝する。


そうなんです。今のこの国には国民が一つに成れる物が無い。グローバル社会だの個人個人の価値観だのと言って、日本人であることを認識していない人が多い時代になった。皆、一つに、一緒に、全員でという気持ちはどこかに持っているはずのに。


今の日本人がともすれば忘れてしまった、決して右翼的思想によるものではない、日本人たる意識。誰もが持っているであろうそれを南アフリカの地でサッカー選手が呼び覚まさせてくれた。


だから改めて思うのです。スポーツというものは凄いと。こころを一つにしてくれるものだと。駒野よ頭をたれるな。グッドルーザー。戦士達よ、君達は「わるびれない敗者」なのだ。


余談。話はさかのぼるようですが。デンマーク戦に勝ったあと渋谷のスクランブル交差点に集結し、歓喜の声を上げるサポーター。すぐさま警官隊がそれを制止し、検挙するとまでマイクで叫ぶ。いいじゃないでか。ナシナリズムの発揚なんです。普段は出来ない日本人としての喜びを味わっているのです。もし、その歓喜の輪の中に警備に当たる警官も交じってニッポンコールをしていたら・・・・。そんなおおらかな寛容な国であったら・・・。変な政治家が「愛国心」なんて言わない方が良い。皆、愛国心を持っている。あなたたち以上に。それをスポーツが証明してくれた。これって極論、狂論かな(笑)。



“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...