大阪の若い母親の幼児二人遺棄殺人から、連日の消えた老人問題、そして孤独死・・・。なんかきのうの続きのようですが。
テレビに出てくる識者とかコメンテータとか称する人達は問題の根本には社会の絆が無くなったという。みんなこぞって「絆」「絆」。
絆。きずなという漢字一文字、かな三文字で時代を読み取ろうっていうのか。こんな漠然とした言葉で。
絆とはもともと馬や牛を繋いでいた手綱の事を言う。「きずな」と読んだ場合。そこから「絶つことの出来ない人間同士の深い結びつき」という意味になる。もう一つの読み方。「ほだし」。その意味は束縛された人間関係という意味。二面性を持った言葉。しかもその人間関係を否定的に捉えている。
親子の絆からはじまっていろんな絆。地域社会の絆とまで言われる。今の社会に生きる人達は、どうもおしなべて希薄化した人間関係を求めているような。濃密な深い結びつきは求めていないような。「ほだし」派が多いような。
死語とはいわないまでも絆って言葉、どれだけ日常多用されているのか。逆にいうと意味が深すぎるような。「きずな」が無くなった、切れたから「絆」という言葉が復権してきたのか。
きょうはヒロシマ原爆の日。「平和」という言葉が言われ、平和の誓いが述べられ、誰しもが平和であることを願う。
小学生の時。書き初めで「平和日本」と書いて出した。その時の先生が言ったこと。「平和じゃないから平和って言葉があるのよね。君達が大人になった時、平和って言葉を使わなくてもいいような国になっていればいいのだけど」。言葉の意味を考える最初の機会だったかも。
原爆記念日。平和という言葉と絆という言葉が重なる。言葉だけでは何も解決しないし、何も読み解けない。しかしそれしかない言葉のもどかしさ・・・。
絆という字は糸偏に半分と書く。字解はわからないが、人と人が相手の力加減をわからずひっぱりあうと糸が半分にちぎれてしまうというところから来ているとも言われる。それとも・・・糸の半分くらいの弱い結びつきってことなのか。
こんなこと書きながら65年前の8月6日の記憶をたどっており・・・・。