2009年9月17日木曜日

雨天の友

鳩山内閣本格的に始動ーーー。決まり切った見出しが躍っているきょう。昨日の夕方から夜にかけての鳩山くん。ほんとに疲れている様子。記者会見での写真撮影。横から見ると背中は曲がり、顔には疲労の色濃く。しかし、内容はなかなか善かったと。なにせ「自分の言葉」で喋っており、質問にも真摯に受け答えしていたから。ま、今朝は晴天。雨じゃなかった。秋の好日になぞらえての一言も発せられたし。


ある新聞に鳩山くんの座右の銘というのが載っていました。「雨天の友」。あらら、いい言葉知ってるじゃん。亭主の大好きな言葉。で、本日は、もう何年も前でしょうか、突然無宿渡世の身になった時に、どこかに書いた駄文。鳩山くんが昔日を思い出させてくれたので。鳩山くんが読むはずは無く、亭主の心情とはもろもろ違っているでしょうが。


 


 


雨天の友


 知人からこんな一言が送られてきた。


肩書に寄ってきた「晴天の友」だけでなく、
苦しいときにも声をかけてくれる「雨天の友」を大事にしよう。


 雨天の友―。良い言葉だ。この半年、友達ということについて考えてきた。親身になって心配してくれた友達の有難さを身にしみて感じた。いまここでこうして書いていられるのも、「雨天の友」がいてくれたからだと思う。


 どういう友達を持っているかー。それによって人生のありようが変わる。こどもの頃もそうだったと思う。学生の頃もそうだった。その頃の友達は「損得」での付き合いは無かった。損得で付き合う必要はお互いになかったからだろう。


社会に出ると、友達関係にも「損得」が入る。この半年、こころならずも離れて行った「友達」だった人を何人見ただろうか。「まさかー」という思いに捉われたことも何回あったか。開き直りでは決して無い。自分を取り巻く人間模様を見極めるのには、貴重な時間であり、経験であった。送られてきた「言葉」を読みながら、今、自分の周りにいる「雨天の友」の顔を思い浮かべ、ただひたすら「有難さ」を噛み締めている。


論語に「益者三友 損者三夕」という言葉がある。


直(なお)きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たもん)を友とするは益なり
便辟(べんぺき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。


「雨天の友」という言葉と、孔子の言葉にある「友」という意味にはいささか意味合いに違いはあるが、人がどういう思いで、付き合っていてくれていたのかー。それを身を持って知ることが出来たのは「幸せ」だったと受け止めている。負け惜しみではない。


 


"格言聯壁"という中国の古典がある。その中の一節も引く。


小人はもっぱら人の恩を望む。恩、過ぎれば、すなわち忘る


君子は軽々しく人の恩を受けず 受くればすなわち必ず報ず。


人の恩を望んだ自分がいる。人の恩を受けている自分がいる。友への甘えで生きていこうとしている自分がいる。そんな"弱い自分"を認めながら、せめて、「報いる」ことだけは果たして行こうと思う。少なくとも「雨天の友」に対しては。



“チェルノブイリ”異聞

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