大通りを犬が進んでくる。犬は歩いていない。そう、進んでくるのだ。オープンカーに乗ったパレードのように。「お座り」の姿勢を保たまま一定のスピードで進んでくる・・・。そう、その犬は車椅子に乗っている。いや、正確に言うなら、電動車椅子の乗った人が膝の上に犬を乗せている。
反対側の歩道にはリードをつけて散歩する犬。時々立ち止まって用を足している。こまめに足を運び、散歩を楽しんでいる。
二つの月ならぬ二匹の犬の光景。2Q09年梅雨の晴れ間の光景。離れた場所から見続ける車椅子の犬。正面を通り過ぎるとき犬と飼い主の表情がはっきりと見える。犬はみじんも姿勢を崩さず、主人の膝にしっかり腰を据え、まさに威風堂々といった様子で風を感じているように見え。安心して身を任せているご主人の膝。そしてご主人の、飼い主の左手は犬の胴にやさしく添えられている。抱えているのではない。どうみても添えられているとしか見えない・・・。
その人と犬と会話したわけでもなく、数分間目撃しただけの光景。しかし、車椅子に乗っての散歩はこの二人にとっての日常と思えてならない。歩くことを本能としている筈の犬が座ったまま移動している。排泄物はどうするのだろう。どこでいつするのだろう。家の中の専用トイレなにか。赤の他人は関知せざることながら気になって・・・。
柴犬の雑種だろうか。中型犬。白がかった茶色の毛。首には赤い首輪がつけられ。その首輪の色に飼い主の愛情が見てとれるような。
なぜか辺見庸が書いた一文を思い出す。「犬と日常と絞首刑」。死刑をめぐる彼の考察。冒頭に登場するのが、そして最後に登場するのが犬の話。
「私は一匹の小さい黒い犬と毎日をごく静かに暮らしている。私は一日三食を食べ、犬は二食である。贅沢はしない。犬は無口というか、あまり吠えない。できればこの日常が大きく変わることのないよう願っている。脳内集結の後遺症で右半身のマヒはある私は、犬の排泄物は左手で処理している。しんどい。必死である・・・・」。「年のせいか私は泣かなくなった。でも同居する犬が死んだら私はたぶん、さめざめと泣くであろう。見知らぬ誰かが"死"んでも涙はながすまい。犬と眼が合う。私はなごみ、同時にぞっとする・・・」。原文そのままの引用ではないが。
物理的事情もあり、その車椅子の犬と飼い主の近くに行くことは叶わなかった。辺見庸の一文を思い出しながら遠ざかる犬と飼い主の後ろ姿を黙って目で追っていた。犬と飼い主の「日常」の想いを馳せながら。犬と飼い主の心情を推し量りながら。
もう一回あの二人にあってみたい。出会った場所に時々出向くかもしれない。
我が家の「ゲンキ」くんはきょうも元気にはしゃいでいるはず。天真爛漫に。気ぜわしく家の中を歩いたり走り回ったり。散歩では全力疾走。しかし、彼も我が家に来る前に、大きな病を得て亡くなった前の飼い主の死をを見届けている。床に伏す飼い主の脇にじっと座り続けていたと聞く。
今は少なくなったが、時々、そう、ごくまれに、彼のつぶらで美しい瞳に、一筋の悲しみの光のようなものが一瞬走るのをボクは見落とさない・・・。