2013年11月16日土曜日

「想像力」ということ

今、いとうせいこうの「想像力ラジオ」という本を読んでいる。
数日前は、原発ホワイトアウトという本を読んでいると書いた。

ボクはおかしな癖がある。

2~3冊の本を傍らに置いて、その時の気分や、“気分転換”を図るためにたの本を手にする。同時並行、併読という癖。

想像力ラジオという小説の中身には触れない。
津波で流された人が犠牲者が、つかまっていた木の上からラジオ放送をするという物語。そこに織り成される死者との会話・・・。

なぜこの本に惹かれているかというと、かねがね、「3・11後」、死者と生者のことを折に触れて、思いつくままに書いて来た。語って来た。だから余計にそうなのだろうが。

小説で死者に語らせるということを著者はこう言っている。
「生者の声はジャーナリズムが伝えている。小説には死者の言葉を聞く回路がある」と。

死者を持った人たち、被災地の人たちからは当然責められると思っていたらしい。ところが読者からの反応は違っていた。
「これはリアリズムである。一つ一つの死者のエピソードを名前も顔もある誰かを想像して読んでいた」という反応。

震災によって未来を考える想像力を封じられていると思って来た。しかし「想像力が復活する装置として文学は使える」。著者は、そうも、感じ取ったという。

想像力の欠如。何回もそのことを指弾して書いてきた。それは政治家に向けてのことばだったが。
未曾有の大災害、未曾有の大事故。それが起きた時に必要なものが想像力。想定外ということとはちょっと違うけれど。

その想像力の欠如が「被害」をより拡大させてきたということ。想像力の欠如とは、つまり「思考停止」。そんな時代が続いていたからだろうか。

「原発」については、たとえば、黒澤明という映画監督が、「夢」と言う映画で、それを描いている。「想像力」の帰結として。
鐸木能光という作家は「マリアの父親」という小説、文学で「原発事故の限りない可能性」を書いていた。それも想像力の帰結。

災後、原発について書かれた文学は登場していないと思う。“ホワイトアウト”は小説の形はとっているが、原発小説、文学とは違うと思う。

しかし、死者と生者のことについてはたとえば姜 尚中が「心」という本で書いている。そしてこの本も。

死者との対話。死者の言葉を聞く。それは、遠野物語にもつながる。

一昨年、「3・11」を書いた文学の登場を願うとも書いた。文学こそがこころの隙間を埋めてくれると思ったから。
一笑に付した人がいた。文学にそんな力はないというように。
その人との対話はそれ以来辞めた。

きょうはこの本を読んでいたい。でも無理だ。原稿が3本もたまっている・・・。それは「想像力」とはかけ離れたものだけど。

昨日、大学時代の友人の訃報が届けられた。伝えてくれたのは、足に出来た瘤の手術の後遺症で烈しい疼痛に苦しむ日々を送っている友人。

亡くなった友達は癌であった。奥さんは痴呆を患い、その面倒をみる。双方の両親の面倒も。重なるストレスが彼の癌の進行を早めたという。

彼との思い出の記憶をたどるしかすべを持たない・・・。

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