2013年11月19日火曜日

漠然とした不安、漠然とした期待

漠然とした不安・・・文豪の自死の理由ではないが。
1Fの4号機の燃料棒取り出しが始まった。その作業には“漠然とした不安”が付き纏う。
何らかの重大事故を起こさないかと言う不安。瓦礫の問題、輸送中の地震の問題、作業員のヒューマンエラーの問題・・・。1年後に移管を終えて保管されたところへの不安。

収束に向けた工程表の第何段階だとか、廃炉に向けた大きなステップを踏み出したとか、節目を迎えたとか、新しい段階に入ったとか。メディアの「本記」の報道は“歓迎”の向き。
そりゃ、始まらないより始まった方がいいのに決まっているが、「原発」に関する世間の耳目を4号機に集中させているような東電のやりかた。
「画期的段階」を迎えたのにもかかわらず、それについてのコメント、見解が政府の責任者から出されないということ。

汚染水の問題は解決していないのに、マスコミの俎上に載らなくなった。1~3号機の、まったく報道されない溶融した核燃料のことも、話題にされにくい。

避難している周辺住民。なんとなく一歩前進のようにも捉え、なんとなく、何もなければいいのにと、それが帰還に結び付けばと、漠然とした不安と期待を語る。

4号機が片付いても帰還の可能性とは結びつかない。
何も言わない政府、政権。250キロ先は“異国”ということなのだろうか。

「変わるのなら誰でもよかった」。昨日も書いた福島市長選に望んで市民の一人が言っていたことば。たぶん大方の市民がそうだったのだろう。
福島市には大波地区と渡利地区と言う二つの比較的高線量地域がある。渡利の友人はその線量を巡って、一昨年から時々、漠然とした不安を綴ったメールを送ってきていた。

高線量の住宅地を抱えながら、東北六魂祭というイベントで国道を除染した市。
たかだか数時間その場を通る人たちのための除染。

漠然とした、いや、明確な不満が渦巻いていたのだろう。あのダブルスコアともいえる得票の差。

新しい市長が何かをやってくれる。新しい市長なら何かが変わる。そんな「漠然とした期待」がもたらした結果。期待はしていないが、現職は嫌だった。そんな声も。

“被災地”が抱える問題、地方自治の在り方、国への見方。ますます複相化してきている。

原発被災。首長も役所も、もちろん住民も、皆「未体験」の話だ。その被災地で地方政治を住民政治を行う事のむずかしさ。

2年間の、2年余りの”経験“”体験“は無意味だったということ。それを生かし得ることを住民は期待しなかったということ。

縮図として福島で起きたことは、そのまま国の問題でもあるのだが。国は「コメントしようがない」という。

国会の場は特定秘密保護法案をめぐり、「駆け引き」が展開されている。与野党と称する政党間で。駆け引きの道具ではないものなのに。修正云々というレベルの問題ではないのに。

多くの国民がこの法案に「漠然とした不安」を持っている。なぜこの法案が生まれ、なぜ成立を急がねならないのか。その理由は”漠然“としていて理解不能。

飯舘村の人達。仮設で暮らしている避難者たちの中から声が上がっていると聞いた。「いくらかでもカンパしてレイテ島の被災者に支援を送ろう」と。

当事者はわかる。当事者の環境や気持ちが。治安維持法で泣かされた人たちは、もうそのほとんどが居なくなった時代・・・。

ぼんやりとした不安。そんな文豪の言葉が頭をかすめる・・・。

すべてが「不安」である時代に、「安心」を仮想する人たちよ。

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