2013年11月21日木曜日

終わりと始まりと

また、ときたま、この詩を使わせてもらうことになる。
ポーランドの女性詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩。

戦争が終わるたびに 誰かが後片付けをしなければならない
物事がひとりでに 片づいてくれるわけではないから

それがどういうことだったのか
知っていた人たちは 知らない人たちに 場所を譲らなければならない
そして 少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後はほとんど何も知らない人たちに

4号機の燃料棒取り出し作業。それを見聞きしていると、どうしてもこの詩が浮かぶのだ。

後片付け。一昨年の原発事故だけではない。もう何年も前から、原発が事故を起こし、その後片付けが時には隠ぺいされながら行われて来たということ。

そして1Fはまさに”原発戦争“の終わりとしての後片付け。

欲望と無知とが押し付けた”化け物“の、それが暴れた結果の後始末。

「誰かが後片付けをしなければならない」。その後片付けに終焉は見えないのだ。

きっと、また、その”戦争“は起きるだろう。その時後片付けする誰かとは誰を言うのか。

非常に悔しいが、ボクは40年後の「後片付け」を見ることは出来ない。
片付けに携わる人たちも、変わってしまう。

「俺たちはたとえ地下に10万年埋められていようとも、生き続けているぞ」。化け物の笑い声が聞こえるようだ。

はじまったばかりの後片付けの作業が、無事に終わることを祈る。もし、それが終われば、また新しい「片付け」の作業が待っている・・・。福島では。

5号機、6号機は廃炉にすることになった。物足りないというか、片手落ちと言うか。

2F,福島第二原子力発電所も廃炉にしなければならない。

少なくとも15万人と言う“悲劇”の主人公にされてしまった福島の人達。

それは「唯一の被ばく県」と言っていい。

だからこそ、そこは高らかに宣言し、「原発を持たない県」として生まれ変わらねば。

そして、その恐ろしさを知った福島の人たちは、知らない人達に、知るための道を譲らなければ。

道を譲られて、そこに踏み出す人たちがどれくらいいるかどうかはともかく。


原発立地地域を含め、その周辺を選挙地盤にしている女性議員さんは、担当大臣にされ、己の能力の無さを知っていながらも、毎日国会で“醜態”をさらしている。見かけは上等そうな、きれいな服に身を包んでいる。中身は反比例しているかの如くに見える。

それを誰も彼女に教えない。

「知る」ということ。「知の歩み」。それを始めることが未来を語ること・・・。

シンボルスカの詩はこんな言葉で続いていく。

誰かがときにはさらに 木の根元から 錆びついた論拠を掘り出し、
ごみの山に運んでいくだろう。
それがどういうことだったのか 知っている人達は 知らない人に・・・

始まりのとばぐちを見つけなければと思う。

原発が稼働していなくても、電気は足りている。停電騒ぎは起きていない。
でも、不安は残る。ならばどうする。

電気に過度に依存した生活の、社会システムの「後片付け」をすることじゃないかな。
ライフスタイルを変える努力をすることじゃないかな。

「企業は金儲けのためにあるんじゃない。この世界を生きるに値する楽しいものにするためにあるんだ」。
世界の自動車王が言っていた言葉。

原発は、生きるに値する楽しい世界とは対極にあるような気がするのだが。

シンボルスカの詩も、ヘンリーフォードの言葉も、2011年以前のもの・・・。

シンボルスカの詩を本のタイトルに引いた作家の池澤夏樹はその帯にこう書いていた。
「何かを終わらせ、何かを始めるためには、一つの積極的な意志が要る」と。

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