2014年6月22日日曜日

「テーブルにつく」ということ

話合いの基本は「一つのテーブルにつくことだ」と誰しもが言う。
民主主義の基本もそうだ。

しかし、実はこのことは実は、あらゆる意味で「難しい事」なんだと思う昨今。

「集団的自衛権」問題をめぐる与党協議。自公が話し合いの、協議のために一つのテーブルについた時から、“結論”は見えていた。
話し合い、協議ということは、どう折り合うかっていうことだ。

そのテーブルをどっちがしつらえたかということだ。

自民党が出した提案をもとに話合う。それは、そのテーマに沿った、そこで机上に挙げられたことについて論議するということ。主導権は提案者にあるということ。

多少の時間をかけて、「言葉遊び」や「言葉のいじくりあい」、「文字のやり取り」。
一つの枠の中での話し合いの応酬。

本質論は棚上げ。というよりもそこで本質論は持ち出せない。何を今さらってことになる。

初めに結論ありき。うまいことを言ったもんだ。

主導権を持っている方は、かさにかかったように、次なる問題を持ちだしてきて、それまでの議論に何の意味もなかったようにする。

集団安全保障。

すでに一つのテーブルについている以上、「話が違う」と言って席を蹴って立つって事は出来なくされている。

近々、「どうにでも読み取れる“安全保障の概念”」とうのが出来上がるのだろう。

テーブルについていない人は、手をこまねいてみていることしかできない。
“外野の声”なのだ。

帰還に向けて、中間貯蔵施設建設に向けて「話し合いのテーブル」が用意されている。そのテーブルは国がしつらえたものだ。
そこに出されるテーマは、国が用意したもろもろ。それに沿っての議論。

例え平場であってもテーブルを挟んでのやりとり。決められた時間枠の中での質問、答弁。

結論は見えているってことだ。

話し合いのテーブルにつくことを、それが“術策にはまる”てことを見越している人は、それを拒否する。その人は話し合いにも応じない人として“否定”される。

民主主義っていうのは「時間のかかるもの」なのだけど。

馬は無理やり水場に引っ張られて連れていかれても飲むか飲まないかは馬が決めるっていうことなんだけど。

ややこしいもんだ。民主主義というのは。

住民同士が意志を決定する。最近、さまざまな方法が考えだされている。
10人くらいずつに分かれ、それぞれのテーブルで話し合う。そこで、完全合意にはいたらないまでも、ある程度の“納得感”を持った結論を出す。

それを全体会議に持ち出す。

民主主義の一つの実践。

その経過では、自分の意見も十分に言え、他人の考えも聞くことが出来、まとめようとする方向に皆が動く。

こんなことを実践している小学校だってある。教師が居ない中での子どもたちの、グループに分かれての話し合い。そこから「考える」という大事なことを子どもたちは学ぶ。人の意見を聞くという習慣も身に着けて行く。

テーブル、食卓。家族が一つのテーブルについて食事をする。だから“家族”なのだ。

マスコミ人が首相と一つテーブルについて一夜を共にする。そこには“連帯感”めいたものも生まれる。テーブルにつくということ。一緒にメシを食うということ。

卓袱台返しのシーンが毎回のようにあった「寺内貫太郎一家」のあった頃。

少なくとも、政治家の間では「卓袱台返し」はあり得ないんだよな・・・。

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