2014年6月8日日曜日

「吉田調書」をめぐって

昨日、道路で転倒。頭部強打。救急搬送。てなことあって・・・。道を歩く時も、とにかく細心の注意、集中が必要なんですな。齢を重ねれば重ねるほど。
だから「歩きスマホ」なんてあってはいけないことなんだと。
昨日も歩きながらちと考え事。歩くことに集中していなかった・・・。

ちと考えていたこと。それは「吉田調書」をめぐる動きのこと。

朝日新聞が抜いた吉田調書は記事を読んだ。デジタル版の詳細も「公開」されている第三章まで読んだ。
門田陸将が書いた「死の淵を見た男」も発刊されから割と早く読んだ。最初にそれを勧めてくれた人は「いろんな見方や捉え方があるでしょうが・・・」と言いながら。

優れたノンフィクションであったと思う。なにしろ吉田に選ばれた数少ない「外部」の人の一人だったのだし。

予断も偏見も持たずに読んだ。いわゆるマスコミが伝えない、伝えられない、当時の1Fのことを知ることが出来た。

「吉田調書」の記事と「死の淵・・・」のことは、あの記事が出てすぐに書いた。
要は「逃げた」「逃げない」ということの違い。
朝日の記事に対して、門田陸将の反論はすざましいようだ。

確かに、門田は聞いたことをそのまま書いている。と思う。なぜなら、あの本が出てからも吉田は異議めいたことは言っていないから。

僕には、もちろん取材した経験は多々ある。取材される側にまわってしまったこともある。
取材される側、その時の取材者とどこかで、気が合うというか、通じるものがあると思うと、なるべくその意向に沿ったようなことを言ってしまった経験がある。

門田の取材、ロングインタビュー。吉田は彼を信頼していたのだろう。そして、それが「本」になると知っていた。その上でインタビューに答えている。不特定多数の人が読むであろうことを心得た上で。それを読んだ人がどう思うかも考慮の中に入れて。

著者もあえて「英雄」を作ろうとしてはいなかったと思う。でも結果は“英雄像”が出来上がった。門田の次作、福島民友新聞の記者たちのことを書いた「男たちは海に向かった」という題名だったか、そこにも結果としての英雄が生まれている。

政府事故調による吉田への聞き取り。その担当は事故調のメンバーに入った検事だ。

取材と検事の聞き取りでは、雰囲気含め違うものがあるはず。吉田は「非公開」であることを前提にして喋ったのかもしれない。
そして、調書を記事にするときに、担当記者の先入観が記事に露呈されたということもあろう。

初回のあの見出しは、先に「死の淵・・」を読んでいたせいもあろうが、あまりにもセンセーショナルなものだった。

作業員の多くは地元の人間・・・。

ただ、問題は「吉田調書」というものの存在は事実だということ。その他700人余りの証言も事実として保管されているということ。その中には当時の政権中枢の人もいるということ。

吉田調書のみならず、事故調の調書は、歴史的資産なのだ。貴重な資料なのだ。
公開すべきものだと思う。

朝日が抜いたのは、それを渡した関係者がいたということ。“内部告発”が必要だと思った人もいたということ。

国会議員も含めて、公開うぃお求める声は多い。隠ぺいに悩まされてきた国民にとっても、政府の信を取り戻すためにも、それは公開したほうがいい。

もう一つの問題。それはマスコミの相も変わらぬ体質だ。朝日が書いたものは他社は無視する。その悪しき伝統が生きている。

調書を入手出来ないなら、朝日の記事によればーーというクレジットを付けて他社も書けばいい。公開を求めるために。

社風、論調の違いを超えたものとしてこの調書はあるはず。マスコミが共有しない以上、国民の共有物にも成り得ない。
公開は福島県民にたいする「義務」でもあると思う。調書をそのまま公開し、判断は国民一人一人に任してもいいのだ。

ジャーナリズムの責務。それが成熟されているかどうかが問われているのだ。
「競争」の原理でとらえている限り、成熟は果たせないと。

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