2014年6月25日水曜日

「マニュアル依存症」の国

マニュアル、手引書とでもいえばいいのか。「マニュアルはあるのか」と問われる。「マニュアル通りにやっているのか」と質される・・・。
運転マニュアル、操作マニュアル、避難マニュアル・・・。
今、この国は「マニュアル大国」とでも言っていいのかもしれない。

その通りに、そこに書かれたことに従っていれば咎めは受けないし。

マニュアルに書かれていないことは、すべて「想定外」となる。

原発事故当時のことを思い出してもらいたい。
事故対策のマニュアルはあった。しかし、それは運転習熟マニュアル。

運転不能、制御不能になった時のマニュアルはどうなっていたんだという問題。
原子力工学的なマニュアル、物理学の基本にした対応マニュアルは存在しなかたはず。

それは現場だけではない。東電本社においても。

だから、「どうしよう、どうしよう」って東電も、保安院も、官邸も、斑目はじめ関係する学者はみな慌てた。

多くの人の精神構造の中には、「マニュアル」神話が浸みこんでいた。
マニュアルに無いことは、どうにもならないってことだったのだ。

マニュアル依存症。

マニュアルが無いと「解」を出せない。

いわば倫理の問題だったと思う。

図上の「避難計画」はあったかもしれない。しかし、結局は「勝手にどうぞ」の世界。オフサイトセンターからの“勝手に撤退”。

再稼働を巡る論議。その必須要件の一つが避難計画。避難のマニュアル。

人間が考え出したマニュアルに完璧なものなんて存在しない。だから、とにかく作っておけばいいということになる。

原発事故にしろ、火山の爆発にしろ、大地震にしろ、それに対応出来るマニュアルなんて有って無きが如しなのだ。

でも、人はその存在を求める。あればいささか安堵する。

マニュアル依存症に陥った国。陥っている国。

かつて「ハウツー本」というのが大流行りだった。なんでもハウツー。それがいまではマニュアルということか。

くだらない事のハウツーはあっても肝心なことのハウツーは無い。

そして、例えば、「レシピ本」。さじ加減、塩加減が無くなる。全国一律の味。大げさだが全国一律に同じ味のものを食べているのかと思うとぞっとする。

手塩を掛けた「おふくろの味」は、希少価値だ。

戦争にマニュアルは無い。戦術と言う“作戦計画”はあっても、撤退にかかわる戦術は無い。
偶発的に起きる戦争にマニュアルは存在しないはず。仮にあったとしても、その通りにならないのが戦争。

歴史を振り返れば誰でもわかること。

サッカーにだってマニュアルは存在しなかった。勝利への方程式はあったかもしれないが、その方程式には「解」が無かったということ。「解」を生み出せなかったということ。

考えることを止めた人たちは、“なんでもマニュアル”の世を生きる。それは「想像力」を無くした世界。

マニュアルを無駄なもの、いけないものと言っているのではない。それは一つの手段にすぎないということ。

音楽だってそうかもしれない。譜面はマニュアル。それをどう解釈し、奏でるかはそれぞれの人間力、表現力・・・。


人生に、人の一生に、マニュアルがあったとしても、本があったとしても、決してその通りにはならない。
いつか来る「葬儀」のマニュアルなら書き残してもおけるが。でも、そこにだって想定外の事態は起こりうるのだ。

でも、政治は安倍の書いたマニュアル通りに動いているのかもしれない。今はね。

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  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...