2014年6月27日金曜日

「自衛権」のから騒ぎ

何日間も、何か月も、いや何年も・・・。真面目に考えてきた挙句のきょうのこの一言。決して茶化してるわけでも無く。

くだらない話かもしれないが。今朝から我が家は“本格除染”がはじまった。
庭の除染。樹の剪定、土の埋め込み。

業者さんに挨拶に。樹木の扱いを聞かれて、「かみさんに聞いてください。庭のことはよくわからない。ここはかみさんの“個別的自衛権”の範疇だから。“集団的自衛権”は無いから」と、全くの冗談で返す。
現場監督の人は、その冗談をいささかわかってくれたらしい。その“比喩”に笑っていた。他の数人の表情。「このおっさん何を言っているのか」って感じ。
要するにその「言葉」も「意味」も知らないってことだろうっていうこと。

最近も、10人ほどの集まりで、年齢は若者から年配まで。「集団的自衛権」のことを聞いてみた。
「知らない、関係ないから」。「言葉はきいたことあるけど意味がよくわからない」「話がどんどん難しくされているようで、何がなんだかわからなくなってきた」「国会議員に任せておけばいい」。「戦争だけは嫌だ」。

そんな雰囲気を味わった。

新聞、テレビは連日真面目にその日にあった事象を伝える。政治家は連日そのことを議論している。にも関わらずだ。

新聞の投書欄にも毎日のように投稿がある。官邸前では抗議集会が行われている。
でも、大方の雰囲気は「無関心」なのだ。

なぜ無関心なのか。政治の手法が、簡単な話をより難しくしているから。
本筋を離れたようにも見える15項目とか8項目とか3原則とか、日替わりメニューのように論点をすりかえたり、都合のいいように持ち出してくるから。

そして大本の「改憲」問題が素直にテーマにされなくなったから。

「戦後レジームからの脱却」。安倍の悲願だ。信念だ。それはそれでいい。

とにかく「憲法論議」に立ち返るべきだ。小手先細工じゃいけないということだ。

改憲をいう人達は、もちろん憲法を守ろうとしない。それに“不信感”すら持っている。なぜか。自分たちが作ったものではないからということに行き着く。
“愛すべき憲法”ではないのだ。

護憲派は9条だけを盾にものを言う。戦争放棄をうたったその条文を不変のものとする。

双方とも「平和」を言う。しかし、「平和」の捉え方が違う。いつまでも中途半端な「平和の概念」ではいられなくなった。

だから、憲法改正を国会の論議とし、改憲を3分の2の議員、過半数の国民投票に委ねるしかないのだ。

そして少なくとも国民投票では、有効な「投票率」を決めて。全有権者の過半数という枠をはめて。

注目されるとマスコミが言い続けてきた与党協議なるもの。その落ち着く先は見えていた。こうなると何回か以前に書いた。その通りになった。

それこそ、ありふれた言い方だけど、国民不在の言葉遊び、文字遊びで。どっちが提案したかどうかはともかく、自公それぞれが自分の都合のいい読み替えの出来る合意。

集団的自衛権の容認、すなわち戦争という議論にもなる。たしかにその道は開かれたのだが。

政治家が口角泡を飛ばすように語りあっているのは「国家としての戦争」の話だ。
市井の民の大方が杞憂し、反対するのは「国民としての戦争」だ。

どこか「原発論議」とにているような構図。

国民としての戦争には、必ず「死者」が出てくる。国家としての戦争には「死者」は出てこない。かすんでいる。その乖離が埋まらない。

戦争を知っている世代は減っていく。経験者の中には戦争を語りたがらない人がいる。かたくなに。そこには「死」が介在していたから。

戦争を知らない世代が社会の中枢を担っている時代になった。「国民の物語」としての戦争をいくら語り継いでも、国家はそれを馬耳東風のごとく聞き流す。

改憲、戦争そのもの。それを論じるべきなのに、集団的自衛権なる言葉に、言い方は悪いが、矮小化してのああでもない、こうでもない。そこに透けて見えるものは何か。

だから「から騒ぎ」と言ってしまおう。

う~ん、明日も続きかな。

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