2014年6月5日木曜日

“否定”としての福島

昨日、知人からメールをもらった。郡山に住む人だ。昨日のここに書いたことへの感想含めて。

「私たちは震災後、福島というくくりの中で否定されていると思った。

住んではいけない。行ってはいけない。食べてはいけない。育ててはいけない。
耕してはいけない。語ってはいけない。知ってはいけない。逃げてはいけない。

息苦しさの原因はこれなのかなと・・・。

そのうち皆、無かったことにされる。オセロゲームのように、ひっくり返されるだけで白が黒に変わってしまう。グレーだって存在するのに。世の中は角をとった方が勝ちってことなのか。

住んでいる。食べている。育てている。それ以上でも、それ以下でもないと思うのですが」。

否定される福島。否定の対象としての福島。“否定”としての福島。ひとくくりの中で。

福島を見る目を「差別」という言葉でしかくくってこなかった僕にとっては、「否定」という視点が刺激的だった。新鮮だった。適確だった。
頭の中の言葉の引き出しに「否定」という言葉が格納された思いだった。

否定として列挙されたことの数々。それは民主主義の理念の否定だとも思う。

基本的人権をはじめ、生存権、そして「自由」・・・。

我々は民主主義国家に暮らしている。誰もがそう信じている。それを疑わない。
だから、あらためて民主主義とは何かと問いかけると戸惑いさえも生む。

民主主義を享受しているものには、それの意味がわかっていないのかもしれないとも。

折しも昨日は中国であった天安門事件から25年の日だった。「5月35日」だった。

中国の歴史から「天安門事件」は消されているとも言われる。無かったことにされているようだとも聞く。共産党一党独裁国家。
未だに若者を中心に「民主化」を求める動きが盛んだとも伝えられる。

まだ「民主化」なのだ。「化」なのだ。そして、その国が大国として君臨しているということ。我々にとっては信じられない国家の有り様なのだ。

昨日も流されていた映像。戦車の前に手を広げて立つ若者。戦車を阻止しようとした若者。戦車をすら止めた若者。
彼は命を懸けて「否定」していたのだ。中国と言う国家の有り様を。25年前。

タイでも同じような映像を見た。中年の女性が一人、民衆を蹴散らそうと迫ってくる戦車の前に立ち、その動きを止めていた映像。
軍事という力を使って権力を掌握しようとする動きに、素手の人間が一人で立ち向かうということ。

民主「化」を求める国民がいるということ。完成されたかのような錯覚の中で、民主主義を当然のことと受け止めている国民の国。

福島から見えてくる民主主義とは何なのだろう。あらためて強く思うのだ。

福島からの「否定」があってもいい。あって然るべき。
言わずもがな「原発はいらない」という原発否定。しかし、それは、どうもかき消されているようだ。「現実的」でない議論だとして。

原発容認論者がいる。再稼働にアクセルを踏む政府がある。それに反対する人たちがいる。
その双方が「戦車」を介在させないで議論を戦わしているこの国。

だから民主主義国家なのかもしれないが。理念すら「否定」された福島からは、いや、そこに住む一人としては、そこに民主主義は見えてこないような気さえするのだが。

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