2014年2月27日木曜日

「丁寧な説明」と「コメントを控える」と

昼飯を食いに蕎麦屋に行った。会計を済ませるとレジの店員さんが言った。紙片を差し出しながら。
「レシートの方、大丈夫ですか」。

いらないから「いらない」と言って出てきたが、この言葉づかい、「大丈夫ですか」、なんとなく意味はわかるが、とんでもない日本語がはびこっているとしか思えない。その店員さんが悪いのではない。そんな“教育”“指導”がされてきているからだ。

いわゆる「マニュアル敬語」、「曖昧な言葉」、「言葉の意味の取り違え」などなど。

「お水の方、大丈夫ですか」「お飲み物は大丈夫ですか」。「袋、差し上げますか」、「いえ、大丈夫です」・・・。枚挙に暇が無い「大丈夫」の”洪水“。巷にあふれる「大丈夫的言語」。

曖昧な、意味不明な、どう解釈したらいいのだろうかというコトバが何の抵抗も無く使われている。

それが「巷」だけではなく、若い世代だけではなく、「権力」の場でもまかり通っていることの不快さ。

「今後はより一層、丁寧な説明につとめていきます」。避難区域の解除の問題でも然り、中間貯蔵施設の問題でも然り。辺野古移転の問題でもしかり。高台移転の問題でも然り。

不満や疑念に対して、「丁寧な説明」という言葉で、それは、当面を糊塗しているものとしか思えないのだが、そんな言葉で”逃げきろう“とする。

丁寧な説明とはなにか。同じことを何回も繰り返していうことか。今までは「丁寧」ではなかったということか。
記者会見の場であっても、その「丁寧な説明とは」ということについての問いかけが無い。その一言で終わってしまう。
そして、「丁寧な説明」が行われてという“その後”のことを聞かない。

今の政権では特に目立つ。「丁寧な説明」という言葉の安易さが。

「コメントを差し控えさせていただきます」。個別の事例についてはとか、その件は影響があるのでとか、多少の前ふりを付けながら。

だいたい、コメントってどういう意味に考えているのか。まさしく「曖昧な外来語」なのだ。
考えを言わない、説明をしない、意見を言わないということか。
NHKの会長がしきりに連発しているから。
ノーコメントと言わずに差し控えるというすり替えにいやらしさを覚える。

「コメントを差し控える」「可能性は排除しない」。外務官僚が編み出した言葉だ。日本語には本来馴染まない言葉だ。

「差し控える」と言われたら、反論しろよ。質問者は。委員長は注意しろよ。「質問に明確に答えてください」と。
差し控えるのは当人の勝手だが、そうはいかない。答える義務がある。明解に。

これがまかり通っていうせいだろうか。「普通の市民」の間でも、使っていい言葉にされている風潮。

どうぞご勝手に推測してくださいってことか。

言葉の曖昧さは、国を曖昧な国にする。曖昧な空気が醸成され、それを良しとするこは、何をもたらしてくるのだろう。

あの3・11後の官房長官や関係省庁、もちろん保安院、そして東電。皆、曖昧な言葉の表現で責任放棄をはかっていたなという記憶。

“惻隠”に裏打ちされた、それが美徳ともされてきた日本文化。例えば古い和歌などは曖昧さによってその美しさを表現している。

しかし、文化と政治は別だ。

上から下まで、身分を言っているのではないが、言葉の劣化が激しすぎる。

昨今、永田町での言葉のやり取りを見聞きしていてふと感じたこと。

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