2014年2月12日水曜日

17歳の少女に教えらえたこと

オリンピックもたけなわ。スキー女子ジャンプの高梨沙羅選手。17歳。
競技の結果は4位。本人も関係者も観客も、日本でテレビをみていた人も、みな悔しいだろう。残念だろう。
彼女の存在は、一人のアスリートとしてだけではなく、あることをボクに教えてくれた。尊敬していると言ってもいい。

ほとんど全部のアスリートたちは、試合に臨むとき、オリンピックだけでは無く、さまざまな場面でこう言う。「試合を、競技を楽しんできます」と。

スポーツ選手が言う「楽しんでくる」という言葉にかねがね違和感があった。コーチや関係者も「楽しんで来い」といい、「自分の滑りをすればいい、自分の野球をすればいい、自分のプレーをすればいい」という。
結果がついてこなかった時、「自分らしさが出せなかった。自分のプレーが出来なかった」といいう。

「楽しむ」。そのことについての答えを教えてくれたのが高梨選手だ。
こう言っていた。
「私のジャンプを見ていて、見てくれていた人が、応援してくれている人が楽しいと思ってくれたら、それが私の言う“楽しみ”です」。

他者に楽しみを与えることが己の楽しみ。

ちょっと前だったけれど、その言葉を聞いたとき、ボクの中にあった「言葉のもやもや感」が消えた。

大人が言えない事、もしかしたら大人とは違う“言葉の価値観”を持っている子なんだと。教えられた、それは尊敬にも近い。
他のスポーツ選手たちも思っていることは同じなのかもしれない。しかし、それを彼女のように明確な考えとして表明できていないのでは・・・とも。

試合後のインタビュー。その答えも見事だった。一語、一語の重みがあり、無駄な言葉は無く、語っていた。

言葉を生業としているアナウンサーの“狼狽ぶり”と対照的に。

少なくともボクは彼女の滑りを楽しんで観た。

10代の若者たちに、実は、大人は教えられているのではないだろうか。災後、特にその感が強い。
大人たちは「うろたえて」いる。

三陸地方の防潮堤門題にしても、若者たちが出し合った意見のほうが正論だ。彼らはきちんと考えている。それは彼らには利害関係が無いからだ。

大人たちは「子供たちのために」という。子供たちのために現実路線を選択しようとする。
子供たちは違う。やがてくる「未来」「将来」を自分たちのものとしてとらえているから。

高校生たちの間では、今、「戦争」が語られ始めている。「戦争を知りたい」という。どこかで、肌で、「戦争の気配」を感じ取っているからかもしれない。

そして彼らは言う。「我々若い者たちだけで、つまり横の関係だけで話しても、何も学べない」と。「縦の関係、大人から話を聞きたい」という。

若者たちに戦争を語り得る大人がどれくらいいるのだろう。「格好いもの」と彼らは捉えていない。

♪戦争を知りたいこどもたち♪。そんな歌でも誰かつくらないか。

今、この国を動かしていると、大いなる勘違いをしている大人たちよ。子供たちに、もう、その座を明け渡してもいいのではないかな。

沙羅ちゃんの言葉がボクを後押ししてくれているような。

メダル、メダルと毎日絶叫しているテレビ。メダル予想をして、それが報道だと勘違いしていた人たちよ。
光輝くメダルよりも、もっと輝かしいものを受け取ったような気がして。
爺の感傷だけかもしれないが。

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