2014年2月20日木曜日

「大雪害」余禄

15,16日の大雪。福島県の幹線も高速もすべて止まっていた。大渋滞が発生していた。全く進まない車列・・・。閉じ込められたままの人達・・・。

福島市の松川町に飯舘村からの避難者の「仮設」がある。「仮設」と書くには自分なりの訳がある。仮設住宅とは書けないのだ。そこはおよそ住宅という概念には当てはまらない場所だから。

松川町の仮設には207人が暮らしている。その8割は高齢者。そこにももちろん雪は降り積もった。除雪車も来ない、除雪に機械も無い。生活道路を確保するのは手作業だけ。

この仮設は国道4号バイパスを見下ろす高台にある。

16日の早朝、体力のある住民はスコップで除雪に励んだ。4時間。バイパスを見ると、車は朝見た時と同じ。まったく動いていない。

住民の一人が自治会長に声をかける。
「渋滞中の車に炊き出しをして、おにぎりを配ろう」
その場にいた誰もがうなずいた。

集会所には富山県のお寺から送られてきた米があった。1斗5升の米を2升炊きの炊飯器をフル稼働させて炊いた。25人の人は“自宅”から梅干と海苔を持ちよった。

出来上がったおにぎりは200個。4人の住民がドライバーに配って歩いた。雪に足をとられながらも。見かねたドライバーも車を降りて配るのを手伝った。
三日間何も食べていないというドライバーもいた。「上の仮設から来た」というと「避難生活をしていて大変なのに、いただけません」と丁寧におにぎりを断るドライバーもいた。

自治会長は言った。「私たちは日本中から支援してもらってきました。困った時はお互い様。ぜひ、私たちの感謝の気持ちを受け取って欲しい」と。

何度も頭を下げる人、涙を流してお礼を言う人。村の人たちは寒さも忘れておにぎりを配って歩いていた。

この話は、ラジオ福島の大和田新というアナウンサーが書いていたもの。そrを借用した。

飯舘村には「までいのこころ」という精神がある。お互い様という気持ちもここから出てくる。
伊豆大島の大水害。台風の時の。この時、大島にコメを送ったのは浪江の人だった。ボランティアへの炊き出し用に。送られた人は浪江の人たちのところにボランティアで来ていた人。
この時も「困った時はお互い様」。そんな言葉が交わされていた。

困った人でないと困った人の気持ちはわからない。

飯舘村とおにぎり・・・。原発事故直後、避難してきた南相馬の人たちにおにぎりの炊き出しをやっていたのも飯舘村だった。高線量の放射能が降っているなんてつゆ知らずに・・・。

飯舘村も大雪に覆われていることだろう。あのご主人が週に何回か昼間だけ来て餌と水をもらっている鎖に繋がれたままの犬、太陽くん。
あのご主人だって高齢だった。雪の中、太陽くんのところに行けているのだろうか。水は凍っているはず。雪を舐めながら太陽くんは急場をしのいでいるのだろうか。ものすごく気になる・・・。

何故時折、飯舘村にこだわるのか。昔、多少の縁があった。どぶろく特区に指定された時、それを買いに行った。ミートバンクも見に行った。多少の知人もいた。どぶろくを買って帰る道すがら、星の綺麗な村だと思った。なんか温かい気持ちにさせてくれる村だと思った・・・。
飯舘村は原発から何の恩恵も受けていない。原発で働く若者はいた以外は。その村にどこよりも高い放射能が降った。その不条理に「すべて」が語りつくされていると思うから。

全村避難を決めた時、菅野村長は村民を前にこういった。「3年経ったら全員で帰ってこよう」と。3年に確たる根拠があったわけではない。素人考えでも2年は無理だ、早すぎる。5年と言ったら村民の心が持たない。耐えられる限度は3年。そんな思いだったという。

間もなくその3年がくる。帰る見通しは全くない。仮設暮らしも3年が精神上限度だと医療関係者は言う。仮設の期限は1年のびた。来年はどうなる・・・。

きょうの「被災地からの声」。広野町の話だった。いわきの仮設に年寄り二人で暮らしていると気が狂いそうになる。ここに来るのが唯一の息抜きだ。町に帰って商売をはじめているお馴染みさんの店を訪ねて言っていた言葉。
広野町にも大雪の名残が随所にみられた。

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