またも出ましたよ。この曖昧で意味の無い言葉。「個人的見解」「個人の意見」。
NHK会長の発言問題。
個人的見解、個人的意見だ。そう言い訳すれば済まされるということ。
およそ、記者会見など“公式”な場で、その取材対象となる人は、その職にあるから見解を求められるのであって、そこに「個人的」という曖昧な、意味の無い言い訳が存在出来る余地は無い。
いや、もっと敷衍すれば、個人というその人自身の「本音」ということのはず。
職責があって、建前上の事を言っているのは本音ではなく、「借り物の言葉」だということ。
かつて流行った靖国参拝での「私人としての参拝」「公人としての参拝」なるものもそう。それを質問するのが仕事だと思っているなんてバカにも程があるってもんじゃないの。
「個人的見解」なるものがまかり通る社会っておかしいぜ。それが許されるから、この社会はますます“無責任”な社会になってくる。なって行く。
会社の会議で、社長が「個人的には」って前振りして、経営に関して何かを言ったら社員はどう受け止めるのかな。
会社の方針というから納得するんじゃないかな。
日本人は、「言葉」に対して、寛容だ。
言葉に言い訳を付けることが許される。「あの~、よくわからないんですが・・・」なんて話す前に自己弁護、擁護しながら、滔々と語る人もよく見かける。
わからないことの質問では無く、言質を取られ、責められたくないという防御。
それは原発問題にかかわる、公的な立場にいる人の発言にもよくあること。
「個人的見解とことわった上でこう述べた」なんて記事にも良く出会う。
それを聞かされて、読まされた人はどう受けとめればいいのか。
日本語文化の中にある「言葉の曖昧さ」「曖昧な言語」。それが日本人の良き精神性とされてきた。たしかに和歌の世界などの古典には、それがある。
遠回しに意志を伝えることを奥ゆかしさとみるとするような。
個人的見解でも、個人的意見でも、その人の口から出た言葉は、その人自身の考えなのだ。
使い分けを許してはいけないのだ。
そして、片や、「イエス、ノーをはっきりさせろ」なんて迫ることもある。
その職にあって、その立場にあって「個人的」という言い訳は許されない。
NHK会長の発言は波紋を広げている。NHKの報道姿勢を危惧する見方が多い。
それは何も今に始まったことではない。NHKのニュースとは、昔から「政府応報」だった。
一方、NHKの番組には優れたものもある。「3・11」後、NHKで大震災、原発事故を取りあげた番組は評価に値するものがある。
それらに会長の意向が反映されるかどうか。
自主規制が働くかどうか。
口にタコが出来るくらい言っているが、NHK仙台の「被災者の声」、津田アナウンサーが一斉の“干渉”を排除して、(僕にはそう見える)伝える限りはボクはNHKのその番組だけは見る。
かって東京の渋谷にはこんな光景が垣間見えた。放送センターから出て来たNHKの職員が、帰りに一杯の場に行く時、バッジを外して入るという光景。
会長の意向を忖度して番組作りに励んでも、渋谷の道で、NHKのバッジを付けた職員に誰も殴りかかりはしないよ。だけど外す職員がいたら、それは自分に恥じていることなんだろうって思うだけ。
とにかく、その職にある以上、それが何であれ、個人的見解、個人としての意見なんていう言い訳は通用しない、あってはならないということだけ。それを許してはいけないということだけ。
2014年2月2日日曜日
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