バレーボール女子の元日本代表、大山加奈の話が新聞に書かれていた。
彼女の母親は幼少期、福島に住んでいたという。そんな縁があったかどうかはともかく、3・11以降、彼女は福島の子どもたちのことを気に掛けていた。
福島入りが果たせないのがずっと心残りだった。
震災後2か月たってようやくいわき市でのスポーツ教室に一度出向いた。それを知った勤務先の会社が放射能の影響を心配して、以降止められた。
彼女自身も不安がなかったわけではないが、福島の子供たちが待っていると言う連絡を貰うと居ても立ってもいられなかった。
「やはり、福島こそ行かなくっちゃ」。
一昨年、浜通りの最北端、新地町の小学校を訪ねた。子どもたちは大喜びだった。子どもたちに将来の夢を書いてもらった。
何も書けない子どもがいた。
<応援しているよ!>。そう書いて返した。
「頑張ってとは言いたくない。子どもたちはもう十分がんばっているんだから」。
スポーツ選手は皆、フアンの観客の応援を糧にしている。現役選手時代に彼女が貰っていた「応援」。
「応援」という言葉には彼女たちの特別の想いや価値があるのだろう。
だから「応援しているよ!」と返したのかもしれない。
彼女にとって“一番”の言葉なんだとも。
「頑張って」「頑張ろう。その言葉の無意味さは再三書いてきた。もう十分頑張っている。これ以上何を頑張ればいいのだ。そう呟いていた老人の言葉を忘れない。
記事によれば彼女はこんな気持ちも語っている。
「2020年の東京オリンピック、大山は素直に喜べない。“楽しみだけど、今優先すべきは、被災地の生活再建では?”」。
これもまた全くの同感なのだ。“当事者”であった選手、メダルを獲った選手。その人でさえ抱く気持ち。
これとても全くの同感なのだ。
毎月のように福島を訪ね、厳しい現実を肌で感じるからこそ、そう思う。
記事はそんな書き方で締めくくられていた。記事を読んで大山加奈という人が好きになった。
「訪ねて感じた現実」。この記事の見出しだ。
知ると言うこと。知ろうとすること。それが如何に大事なことなのか。あらためて、あらためてだ。
フランスの思想家、ロラン・バルトはこんな事を言っている。
「無知とは知識の欠如では無く、知識によって“飽和”されているせいで、未知の物を受け容れることが出来ない状態を言う」と。
福島の人も、県外の人も、それなりに福島に対する知識は持っているはずだ。でもそれは肌で感じた知識なのかどうかということ。
知っているつもりになって、知る努力を惜しんではいないのか。
そんなことを大山加奈という人のことを書いた記事を読んで、これまたあらためて思った次第。
東北楽天が宮城にやっと戻ってきたときもそうだった。子ども達を激励にサッカー選手が来た時もそうだった。
一回キャッチボールをしただけでも子供たちの目の輝きが違う。
ひとこと言葉をかわしたり、触れ合っただけでも、子供たちの中に生まれる感情は違う。
直接の接触でなくてもいい。自分たちがそこに居るということを知ってもらえただけでも子どもたちには意義があることなのかもしれない。
「頑張る」という言葉の持つ意味をちゃんと知っていた、わきまえていた大山加奈という一人のアスリート・・・。「知る」ということの大きさを教えてくれた若いアスリート・・・。
2015年4月21日火曜日
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