2015年4月27日月曜日

昔も今もボクは“不良”だった

2011年、まだ郡山に避難所があった時、時々そこにお邪魔していた。
そこで何人かの避難してきた人たちと知り合いになった。

仮設住宅にとりあえず落ち着いた頃、お茶のみしながら、なにかと話をした。

「あんた最初に見たときはヤクザもんに見えたのさ、ヤクザが避難所に何しに来てるんだって思ったさ」。

なるほど左様、最初に会話を交わした時、その人には確かに一種の警戒心みたいなものがあったようだった。

「でもさ、しばらくしてそうでは無いとわかってさ」と言われて・・・。

で、よくよく話してみたら、その人の無くなった旦那は、ヤクザの組長やっていた人で、苦労させられて・・・。なんだい、その人、昔はヤクザの姐さんだったってこと。

ふざけんなよ、ヤクザのカミさんに言われたくないは・・・。
「なんかね、あの野郎と同じような雰囲気を感じたんでね。ごめんね」ときたもんだ。

どうも僕は見た目、ヤクザっぽい、不良っぽい雰囲気を持っているらしい。

そう言われれば、子供の頃から不良っぽいところがあったようだ。親譲りでは無い。
あの戦後の空気がそうさせていたような。

小学生の時、家の近くに「オンリーさん」と呼ばれている女性がいた。ジープに乗って米兵が来る。それが来ると、その家の女の子は表で遊んでおいでと出される。その子の泣き声や怒ったような表情をみるにつけ、米兵が憎かった。
帰るジープに石を投げつけていた。

中学生で煙草を吸っていた。もちろん親には隠れて。すぐにばれたが。

高校生になると、深夜放送のラジオから流れてくるジャズに惹かれていった。

その頃、ジャズは「不良の音楽」と言われていた。不良に憧れた。
学校帰りに池袋の盛り場をうろつき、新宿西口の「しょんべん横丁」や「歌舞伎町」の繁華街をうろついていた。

中学・高校、気に食わない教師にはめっぽう反抗していた。先生が「贔屓」をしていたから。

どこか反社会的文学に惹かれていた。読みふけっていた。学ランの襟はいつも外していたし、袖のボタンは5個付けていた。

大人の居場所である盛り場を、大人の背中に隠れるようにして覗くのが好きだった。

大学生になると、ジャズ喫茶に通い詰め、かたわら、安保反対のデモに出かけていた。どこのセクトに属すると言うことでは無かった。全くの個人行動としてのデモ。痛い思いも、冷たい思いもした。

社会人になると、やたら上司に反抗していた。嫌な奴だと思われていたのだろう。

そうだ、高校生の時から雀荘に入り浸っていたっけ。

ちょっとおかしい振り返りだが、反権力イコール不良だったような。

郡山に来てからも時折ヤクザぽいだの不良っぽいだのと言われた。その筋の人とも「友達」になっていた。彼らに言われた。「とっちゃん、なにか同じ匂いがするぜ」って。

だからと言って何をしたわけでも無い。

3.11.郡山市の野球場が避難所になっていた時、そのヤクザどもが、大量の差し入れを、支援物資を運んできた。
なにせ、かっては田舎ヤクザだったのが広域暴力団に吸収されていたのだから。
組織を挙げての支援物資。その中身は見事だった。カップヌードルを食べるための箸、子供のおむつ。気が利いているねと褒めてやった。

今、ビートたけしが監督をした「龍三と7人の子分たち」という映画が話題を呼んでいる。一見怖そうで間抜けっぽいヤクザ屋さんたち。平均年齢70歳以上。

昔の任侠映画やヤクザ映画も人気をはくしているという。

なんかそういう時代なんだろう。時代の空気なんだろう。

毎日、権力に反抗するような、世の中を斜にみたことを書いている。これとて「不良性」の為せる業かもしれない。

なんとなく思うんだけど暴排法が出来てから、ガキども(15歳から25歳までか)の凶悪、陰湿な事件が多くなったような気がしないでもない。
昭和34年頃、売春防止法が出来てから性犯罪が増えたと指摘する人もいるが。

ま、それらはともかく、もう少しだけ不良老人でいようと思う。全く違法行為はしませんが。

権力の流れに、この国を覆っている空気に対して反抗してみようと思う。
そんな年寄りの一人くらいいたっていいじゃないかと。

もっとも、著しく「体調不良」ではあるのだけれど。
「不良」・・・なんとなく心地よい響きさえ感じてしまうんだ。友人や仲間たちからもそういわれているけど、それは「許された不良」なんだとも思いながら。

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