きょうはキリスト教の復活祭だ。キリストの復活を祝う日だ。
聖書の中にこんな言葉がる。
<コヘルトの言葉>
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
聖書から離れても「時」というのは、さまざまなことで重要視されるはず。
さまざまな事に応用されるはず。
「時を失した」という言葉もある。つまり、タイミングがずれたらまとまることもまとまらんくなるということか。
沖縄、辺野古をめぐる沖縄県知事と官房長官との会談。まさに「時を失した会談、遅すぎた会談ということにならないだろうか。
会談は結果「平行線」のまま。辺野古に基地を作る。作らせないの応酬。
これまで、時日をかけてやってきた辺野古をめぐる動きは、まったくの振り出しに戻ってしまっている。
翁長が知事に当選した時、国の方から、積極的に好意的に、その選挙結果を尊重してのアプローチをしておけば、もしかしたら局面は変わっていたかもしれない。
会談を国が申し出るどころか「粛々と工事を進める」などと強圧的な言辞を言い、振興費を減らしての脅し。会談しないとも言明していた。
これでは沖縄側だって「売られた喧嘩は買うだけ」ということにもなる。喩えの言葉としては適当ではないかもしれないが。
何をもって菅を会談の方向に変えさせたのか。その要因、遠因があるはずだ。
その中には安倍の訪米がからんでいるのだろう。
対米戦略があるのだろうとも思える。
沖縄の基地、辺野古をめぐっての動き、それにアメリカ側は“神経をとがらせている”という動きがあるからだ。
訪米を成功させるための遅すぎた会談だった。そんなことを思う。
たぶん、近々、安倍も会うことになるのだろう。会って“解決”が出来るのか。
もう時期を失したということではないのか。
翁長が“かたくな”になる以前に、思慮をめぐらしている時にあっていれば展開が変わっていたのかもしれないのに。
“怒り”に燃える沖縄県民のこころを静めるのは至難の業にもなったような。
芽生え、根付いた「不信」を除去するには、何十倍もの努力を必要とする。
そんな“単純”なことすらわからないはずはないのだが。
福島も全くのように同じ構図の中にある。全ての福島県民とは言わないが、沖縄県民とて同様だが、東電や国のやり方はすべてに時を失してきた。
“怒り”を増幅させてしまったのだ。
だから被災者を中心にした、そこに在ることは常に揉めるに揉める。3年前の今頃から、国や東電が真摯な姿勢を貫き、「共有する問題」として対処していれば、おしなべての事にある「不信」は生まれなかったし、もろもろの事がもっとスムースに進行していたはず。
沖縄も福島も同じだ。国は「見くびっていた、甘く見ていたのだ」。
苦渋は「他人事だったのだ」。
コヘルトの言葉にはさらにこうある。
わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
そして最後はこうある。
“すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある”。
そうなんだよな。終戦の時も”時”を間違えたのだなと。
終戦の詔書、「時運の赴くところ」と、そこにも時期を失しているにも関わらず“時”という字を使った。
やはり「義命の存するところ」ではなかったのだろうか。あの表現は。とも振り返る。
2015年4月5日日曜日
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