2015年4月8日水曜日

「スマホやめますか、信大生やめますか」

入学式のシーズンだ。きょうは郡山では公立高校の入学式があった。

過日、信州大学の入学式で山沢学長が述べた式辞が話題になっている。
それに“見出し”をつけるなら「スマホ止めますか、信大生止めますか」だ。

こんな話をしている。

今まで、皆さんは正解のある問題を解くことに終始していました。知識の量を試されていました。世の中では、正解のない問題を解かなければなりません。
日本が今後とも活力ある社会を維持し、世界へ積極的に貢献していくためには、科学、技術、文化のいずれの分野でも独創性や個性を発揮することが重要となります。横並びの発想では問題を解決できません。

個性を発揮するとは、なにか特別なことをするのではなく、問題や課題に対して、常に「自分で考えること」を習慣づける、決して「考えること」から逃げないことです。自分で考えれば、個性が出てきます、豊かで創造的な発想となります。
身につける「知識の量」を主とするのではなく、「知識の質」すなわち自ら探求的に考える能力を育てることが大切なのです。

スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの「見慣れた世界」にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。

 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 

スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな人間を育てるのです。


この学長が持ち出した「スマホ」。それは、現代の人たちが、それは老いも若きも、文明の進化を享受し、限りなく便利さを求める。そうした風潮のアイロニーとして、あえてスマホに“人格”を与えて話したことなのだと理解する。

今朝の新聞で、この事が書かれていた。記者が学生に「賛否」と問うた記事を書いている。

その記者の視点は「スマホ」、情報機器、ツールとしてのスマホと捉えている感ありだった。


この学長が問いかけているのは、もっと根源的なことだと思う。


そう受け取るには自分の中に一つの“伏線”があるからだ。

去年、立教新座高校の卒業式で渡辺校長が述べた式辞が重なったからだ。

「捨てて二時間福島の海を見よ」。そう題した式辞ではこう語られている。

あらゆる身の回りのものを捨てて、二時間、福島の太平洋に向き合いなさい。
体で海を凝視しなさい。身についているすべてのものを脱ぎ去りなさい。
携帯電話。 スマートフォン。 書物も、カメラも。 友達も、恋人も、家族も置いて行きなさい。
忘れなさい。自分を取り巻くすべての情報から離れるのです。
あまりに過剰な情報に沈黙を与えなさい。行為として沈黙を作りだすのです。
独として海に向き合うのです。そして感じなさい。
五感を震わせて海を感じなさい。
波頭をその目で見つめなさい。潮のにおいをその鼻でかぎなさい。
波の音を聞きなさい。吹く風を身に受けなさい。
息を胸いっぱいに吸いなさい。
自然を体感するのです。若き体をいっぱいに開いて感じるのです。
新聞やテレビで分かった気になってはいけない。
今からでも遅くない。否、今だからこそ。震災から 3 年たった福島の海を見つめなさい。

すぐ近くで悲劇がおこり悲劇が続いているのです。
誰もいない海を見なければならないのです。


この校長も、信大の学長も、“現実論”としてのスマホを言っているのではない。
その真髄は“哲学論”としての人の在り方なのだと思う。

スマホという便利さを捨てて、考えることを求めたということ。
スマホを置いて、海に対峙し、五感を震わせて海を感じるということ。

同意語なのだ。感じること、考えること。人間として当然の本義を問うているのだ。そう受け取った。

この式辞を受け取った若者たちが、それをどう咀嚼し、思考を広げていくのかという問題だ。

考えることを止めた大人たちへのメッセージとも受け止めたのだけど。

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