2012年6月13日水曜日

究極の“水かけ論”

原発事故をめぐる調査委員会。政府や民間や国会や。とりあえずは国会事故調委に信を置く以外にないのだろうけれど。

鉄は熱いうちに打ての諺もある。福島ではすべてが進行中であり、悠長な原因調査や検討の時期ではないという声も多数あるものの。

そして大飯の再稼働は指呼の間。福井県知事は初めて原発視察というのに驚く。福島県知事と同じじゃないか。そして安線確認とさえ言う。何がわかったというのか。

国会事故調。撤退か退避か、避難か。言葉の解釈めぐってああでもない、こうでもない。結果、菅が悪いか東電社長が悪いかのあげつらい。メディアもそれに同調し。

東電は官邸が悪いといい、菅も枝野も東電が悪いと言い。海江田はどっちつかずの様子だし。

これって事故の「本質論」なのかと思わざるを得ない。本質論とは原子力政策そのものを検証することだし、それにまつわる人間の「慾」を明らかにすることだし、国家の危機管理にメスをいれることだと思うのだが。

大の大人が、それも権力者たちが、言い訳に終始し、記憶に無いを連発し、ロッキード事件の小佐野賢治の証人喚問を思い出させる醜態をさらし、子供でもしない責任のなすりあいの究極の水かけ論。

それを、くだらない水かけ論を期待している、望んでいる国民はどれほどいるか。

水かけ論と書いてなんか笑いだす。事故現場は今でも水を掛け続けねばならないということを。

水かけ論と水かけ対策。東京電力福島第一発電所。1号機から4号機まで。常に一触即発の状況は変わっていないし。

この「距離感」。レ・ミゼラブル。

無知でありながら、それを知ったかぶりした権力者、権限を持つ人が、様々な決定をくだしたという悲劇。

いや、その“悲劇”は再び繰り返されようとしているように見えてならない。
「ああ、無情」としか言いようがない。

政治判断。亭主の辞書の中には「いい加減な判断」と書かれている。過去の政治史を見ても、政治判断とは、てきとうな時期に適当に判断するってことだった。何でも「足して二で割って」という手法がまかり通っていた時代は。

だからあらためて思う。政治判断というものほど怪しげなものは無いという経験。それは何も「決められない政治」を是として言っているのでなく。

水かけ論はたぶんまだまだ続くはず・・・。それに水を差しても致し方なしかと。

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