2012年11月13日火曜日

「責任」と「正義」と

昨日の話しの続きのようだが・・・。

反原発集会に参加している人たちの多くは言う。「放射能から子供たちを守るのは私たち世代の責任だ」と。「未来に対する責任だ」と。

そう、それはまさしく「正義」である。正義の主張以外の何物でもない。
が、しかし、それは「まやかしの正義」のようにも聞こえる。

反原発を言う人達が、果たしてどれくらい「フクシマ」と同じ立ち位置に立っているのか。共通項を持っているのか。

「安全でない」とされる地域からの「安全とされる」地域で活動している人達への、一つの“視線”。

反原発、脱原発。それを言うことは正義である。原発事故の責任を追及すること、それも正義である。

しかし・・・。“フクシマ”を起点にして、反原発を言う人達になぜか感じてしまうこと。今更言うまでも無く、東京電力福島第一原子力発電所が生み出した「電気」によって、都会の生活は維持されてきた。原発が生み出した「モノ」の恩恵にあずかっていた都会の人達。という、まごうことなき事実。
自分たちが受けて来た恩恵を知った時、そこに、多くの犠牲者がいたということを知った時に、彼れの中に沸いた「贖罪」の意識。贖罪の意志として唱えられる正義は、だから、どこか“まやかし”のような気がするということ。

福島で今も進行中の「原子力戦争」。敵は誰か?敵はどこか?
今、福島県民の中の、そう、一部なのだ。警戒区域の人達。帰るべきか、帰らざるべきか。あきらめるべきか、あきらめるべきでないか。

自分との戦争が始まっている・・・。一人の人の中で、二人の人が戦っている内なる“戦争”。

人は、なにか「事」が起きると、すぐさまその責任を問い、責任追及に走る。
正義の名の下の責任追及。
東電の責任、政府の責任、地方自治体の責任・・・。メディアはこぞって責任追及に明け暮れて来た。責任の所在を明確にし、その責任の取り方を迫った。迫っている。それはメディアにとっては正義だ。

しかし、責任追及のだけ明け暮れていて、物事の解決策は見えるのか。つ厩舎は、その所在が明らかになったところで、多分、追及したことによって一つの結論が得られたとして、その矛を収めるかもしれないから。
それは「過去にあったさまざまな追及劇」が証明している。

その、それが大きな世論として、責任を問う中で、どこか、それが福島に向いているということ。原発立地県としての福島に・・・。

福島県は、原発に伴う「カネ」の“恩恵”を受けてきた。それは立地地域の町村だけでは無い。県の財政も然りだ。

だから、どこかで、その「責任」を感じているのか・・・。小さな声を挙げながらも、その過酷な日々を甘受しているかのようにも見えて仕方がない。

だから、福島にとっての、今の正義とは何か。という議論が生まれてくる。

「いつまでも悲しんでばかりはいられない、先を考えよう。救いを求めているばかりではいけない。自分たちで、次の道を探らねば・・・」そんな声も生まれてきている。それが何なのか、探ることすら考えてみても長い道程だのだが・・・。

今日は月一回の塾。塾生と話し合ってみたい。「正義」ということについて。今の正義について。今を生きる我々の正義とは何かについて。

もちろん、結論めいたことは出ないだろう。なによりボク自身が結論を持っていないのだから。でも、いま、この国にとっての正義とは何か。福島に生きる者としての正義とは何か。お互いに考えてみる。そう、考えること自体に意義があるのだから。

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