2012年11月14日水曜日

「数字」とか「数」とかが闊歩する

とりあえず昨日の塾の報告。「正義」について話し合ったあれこれ。
「正義」という問題提起をしてよかったと思う。正義をテーマにして皆で考えたことが。

「いままで、あまり考えたことはなかったです。これから真剣に考えてみます」。
某社長。
「いままで自分が考えて来た正義と、現実の正義との乖離に気づきました。考えを整理しないと」。これも某社長。

連日のように、このところ書き綴って来た「正義」。法の正義、国家の正義に論点を絞って。元国家公務員は、自らが法を作ってきた立場から、官僚の「ずるさ」を回顧していました。このテーマに一番関心を寄せていたはずの地方公務員、急に家族が入院とかで、講義には参加できず、悔しがっていました。

だから、次回も具体例を引いてやります。フクシマにとっての正義とは、に至るまで。

法の正義に関連して、杉浦千畝の「命のビザ」のことも話しました。知らなかった塾生もいた。本を読んでみろと言いました。

予定時間をはるかにオーバー。時計が刻む時間という数字を気にしながら、繰越・・・。戦争と正義についても関心があったようです。

正義について考える。考える葦の話も余談で提供して、考えることを、どこかで止めていた彼らにとってはいい刺激だったのかもしれません。
「3・11」があったからこそ考えるようになった正義。

なぜ、考えることを止めたか。その根底には「数字」の問題があると思っています。

数字が今の世を語る、極言すれば世相の主流になっている。数字や数ですべてが語られる。

郡山市内でも、あちこちに設置されているモニタリングポスト。時々刻々の「線量」が表示されている。
多くの死者や、多くの避難民、それらも日々数字として語られる。

食品の“安全”も然り。須賀川の米農家から110ベクレルという数値が出た。
大騒ぎ。基準値は100.わずか10ベクレルの「差」が意味するものは。
110と99の差は。

20キロ圏内と21キロの、その間に引かれた線の意味は・・・。

ND,未検出と言っても、それは必ずしもゼロベクレルを指すものではない。

数字によって得ようとする「安心感」。

反原発集会の“評価”も、参加人数の多寡。GDPがいくら下がったとか、どこの売り上げが数字ではこうだとか。

線量、線量の日々。数字だけが信頼に足る基準という「合理的」過ぎる考え。
倫理観や価値観など、人間の「考え」はそこに介在出来ないような。

国会、政治。ここもすべてが「数の論理」。数合わせの論理。数が議員の行動を差配する。

マスコミは世論調査という数字を金科玉条のように掲げる。テレビは視聴率という数字に右往左往する。日々のこと。

数字、数字。人は数字というタガの中でしか生きられないのか。時間という数字に縛られる。

きょうは寒さが増しています。天気予報の気温の数字や降水確率がやたら気になる・・・。

「数字」を「正義」の範疇にいれて論じるつもりはありませんが・・・。

数字が全てという社会はやはり味気ないような・・・

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...