元テレビ屋が、テレビを批判し、時には悪しざまに言うのはおかしいかもしれない。
でも、元テレビ屋だからこそ見えるもの、感じる物がある。だから時々、自己反省も含めて思いついたことを書いている。
それは元東電社員が、原発事故についてその問題点や根源を語るのに似ているのかもしれないし、元特捜検事が、今の司法の在り方を語るのに似ているかもしれないと思いつつ・・・。
テレビは優れた広告媒体である。民放テレビは広告収入によって成り立っている。当たり前だが。
電力会社は大手のスポンサーだった。だから、あの事故後、テレビ局と電力会社の「カネ」にまつわる話が多く語られた。
それはテレビに限ったことではない。新聞とて、電力会社からの広告料収入はバカにできないほどあった。
福島に来て、報道担当として、後年営業担当として、東京電力や東北電力と、さまざまな関係を持った。持つようになった。
原発について言えば、田中角栄が電源立地三法のいわば生みの親であり、その経緯も多少は知悉していた。
今で言う“情報カメラ”、当時は“お天気カメラ”と言った。無人のリモコン操作によるカメラ。それを最初に設置する時、「原発」を撮れる所にしようと提案した。阿武隈の山地にそれを作った。もし、事故があったら・・・それがその理由。
電力会社がスポンサーになった番組も数本作った。その番組は、どれをとっても原発の安全性を訴えるものではなかった。送電線を守る人の話であったり、電力会社主催のコンサートであったり。Jビレッジ活用のための物であったり。
原発を巡って、電力会社からの“圧力”を受けた記憶は無い。敢えて危険性を訴えた番組を作った覚えも無い。
そして、あの日のあの事故。翌日の、その次の日のあの事故。福島中央テレビの“情報カメラ”が、たまたま捉えたあの映像。
あの日から、テレビジャーナリズムが、原発事故を、事故の後をどう伝えているか、伝えていくかに大きな関心を寄せていた。
期待もした。しかし・・・・。期待は裏切られていた。さまざまな“規制”に自分たちもはまりこんで、その機能を、役割を果たしていない。悔しかった。
CM自粛に始まって、テレビはその有りようを大きく変えるだろうと思った。現役のテレビ屋さんたちも一時はそう思った。
今のテレビ。何回も言うが「変わっていない」。電力会社の、原発に関わるCMが無くなっただけ。
CMは瀟洒な家を紹介する。家の灯りの癒しを流す。4畳半二間の仮設で、避難してきている人はそのCMをどんな思いで見ているのか。
電気によって、限りなく便利な物が生み出された。その便利な物は、もうあの日で終わりでよかったのではないか。
だけど、CMには、より便利な物が次々に登場している。家電製品はじめとして・・・。
人間が関知しないでも止まる自動車まで。車の運転とは「考える」ことの延長にある。だから運転の上手い下手と言われた。ぶつかりそうになったら止まる車、ナビを搭載していれば、地図を片手に考えていた道を考える必要も無い。
人は誰しも便利なものを好む。結局、あの事故があっても、あの災害があっても、家や人や動物が流されても、人間の欲望には変わりがなかった。
民放の宿命だから仕方がないが。あのキンキン声の社長がテレショップ番組で叫ぶ。「お得ですよ、お安いですよ」と。
新しいIT機器。民放の番組は世紀の発明のごとく中継車まで出して、その発売初日の模様を歓声をあげて伝える。スマートフォンの利便性が、これもできるあれも出来るとその「賢さ」を伝える。
それがどれだけ普及しているのかはわからないが。ボクの周りにはそれらと無縁の人が大勢いることをボクは知っているのだが。
志望動機が何であったにせよ、これからのテレビを担って行くはずの若いテレビマン達よ。「テレビのこれから」を真剣に議論してみないかい。創世記のテレビマン達がそうであったように。
ネットの中で数多くの動画が披歴され、映像を武器とするテレビの役割も、変わってきているはず。それをどう受け止め、どうな「テレビ」を創っていくのか。
震災後、現地に取材に行ったテレビマン達は、今も、そこに赴くテレビマン達は、何かを感じ取っているはず。変わらなければいけないと思っているはず。
その漠然とした思いを、形として、伝え方として、在り様として、どこかに結実させる。そんな熱いテレビ論が、明るい都会のネオンの中の一角で交わされないのだろうかと。