時々見かけませんか。ちょっとした小料理屋さんとかで。額に入った絵と書。
武者小路実篤が描いたもの。有名なのが「仲よきことは美しき哉」、ちょっと変わった物は「天に星 地に花 人に愛」、さらに「君は君 我は我也 されど仲良く」といったものも。
実篤は作家として、そう、有名な作品は「友情」だったか、中学時代読みあさりました。そして彼が作った、白樺派なるが故の理想郷「新しき村」。
うろ覚えの記憶では、その村は昭和の初め頃、宮崎県に作られ、村としての理想を掲げ、やがて、その村にダムが出来ることになったため、埼玉県の毛呂山に“移住”した。要するに、文明開化の風潮に背くように、人は人らしく生きるように、自給自足の農業を主体にした村。
今でも、入村し、そこで暮らす人たちが数十人ながら居るはず。
郡山は明治時代、安積開拓によって出来た村。新しき村。そこに居たのは「貧しき人々の群れ」。宮本百合子が書いた。
安積開拓は多くの入村者で始まった。九州の久留米に至るまで。
どこか、似て非なるが、新しき村と、安積開拓が重なる。安積開拓に実篤のような「理想」はなかったとしても。自他共に生きる。それが村の精神ならば、どこかで同一化される部分もあるかもしれないから。
そして、今、福島県に「新しい村」という考えが登場している。たとえば川内村。帰村宣言をしたものの、それがはかどらない村。除染のためにはぎ取った“廃棄物”。それの仮置き場をめぐって村は揺れている。村長は口にした。
「新しい村」と。
それは、なかなかままならないものの、企業の誘致をはかり、雇用を確保するとか、さまざまな“工夫”を凝らしている。
彼の言う「新しい村」とは、蘇る村を意味するのか。原発に仕事を持つ若者も多数いるが、元は「農」を基本にした村だった。
飯舘もそうだ。「農」を中心にして、共助を掲げ、菅野村長は、長い年月をかけて、新しい村を作った。
そして、再び、「新しい村」を作ろうと腐心している。
おそらく、帰還困難な20キロ圏内の町村。「仮の町」構想が言われてきたが、頓挫しているようにも思える。その住民が「仮の町」という呼称をどう思っているのかわからない。仮は仮。しかし、元に戻れるのか。
「新しい村」を「新しい町」を理念として捉えることもあり得るのでは。
実篤の「新しき村」は、“理想”だった。理想と現実とは違う。
が、しかし、“原発”とサヨナラして、彼らが維持し、それによって成り立っていた人間関係である「コミュニティー」を生かし、拡大し、「新しい村」を作ることは考えられないのだろうか。
それを目指したなら、もしかしたら、わずかな“希望”も見えてくるような気もするのだが。
過去には、未来へのヒントが隠されているかもしれないということ。