2012年11月28日水曜日

そして、「絶望」。~時々、選挙について~

希望の「解」は見つからないけど、見えないけど、対極としての「絶望」は目の前に転がっている。それは政治と世論。

長年、政治の深奥を見、時には政治に関わって来たものですら覚える政治に対しての絶望感。

「選挙」がそれを、いみじくもあぶり出してくれているような。

維新。それは明治維新を想起してのことだろうか。明治維新がこの国にもたらしたものは・・・。文明はたしかに開化した。皆、坂の上の雲を目指してひた走りに走った。列強に伍すとして、近代兵器を手にした。あまねく西洋化。天皇にサーベルを下げさせるような。
明治維新はこの国を一大官僚国家に仕立て上げた。

日本を取り戻そうーと言う。取り戻す。日本はどこかに取られていたのか。亡くなっていたのか。

他党をやたらあげつらう。時には口汚く。

何の“極”でもいいのだけれど、未だもって多党化の中で、離合集散の動きがある。選挙のための鵜合の衆の如きもの。それは、結果が出たあとに多分“瓦解”する。民主党がその証左だ。

「未来の党」というのが出来た。小沢一郎は“解党”したうえで、そこに参画するという。亀井も。
いきなり登場してきた「政党」。目下の数ではまさに“第三極”だ。

小沢は何を目論み、何を画策しているのか。小沢や亀井にとって、学者知事さんを利用し、手玉にとることなんか「お茶の子さいさい」。

「出て壊し、入って壊す小沢流」。かつて永田町に流行った戯れ歌が、また蘇る。

NHKでもやっていた世論調査、選挙の争点。原発、被災地復興の順位は低い。世論調査。つまり国民の意識だ。関心が薄くなっている。

もはや、あの事は「他人事」と化したかのような。

マスコミは原発や被災地復興を争点にしようとする。敢えてしている。それは、彼らの「贖罪意識」のように見える。世論の関心の低いことを敢えてテーマに据える。なんか見え見えだ。

だから、政治家、党首もそれについて触れる。しかし、彼らが語るのは、将来の国の在り方としての原発エネルギー問題。しかも、それは曖昧模糊としたもの。

「反」でも「脱」でも「卒」でもいい。原発を主要政策に掲げる集まりが出来る。それはいいことだ。だが、それとても漠然とした将来の話。

今だ、今をどうする。原発難民を、東北の被災者達を、1Fの現状を。過酷な条件の中で働く、彼らがいなければ「廃炉」は出来ないという現実を。そんな事を誰も語らない。

故郷を取り戻す算段をどの党も語ってくれない。多くの被災地の民は、それに戸惑う。

見捨てられたような民達にとどく言葉のない旧態依然とした選挙戦。いかに多数を制するかだけが目的のような選挙戦。

それらをして、あえて「絶望」と呼ぶ。

被災地の選挙はどうなる。何を基準に選ぶのか。自分たちの「環境」が語られない選挙に。

仮設から投票所までは遠い。行きたいけど行けない高齢者。その人達の「意志」はどうやって反映されるのだ。

原発事故地域は福島5区。その地に居る人は少ない。会津の4区に避難している人達。4区と5区の候補者の区別がつかなくなる。

自治体の職員も大変だ。投票箱を持って、埼玉県まで出向かねばならない。職員の労苦は、選挙に振り回される。“棄民”とて“棄権”を善しとはしていないが。

被災地では、「参政権」すら奪われようとしている。

さまざまな意味で「民意」とは何なのだろう。あらためて考える、今年一番の寒さの中で。
「避難所」という言葉を久しぶりに聞く。停電した北海道の話だが・・。

政治に「希望」という言葉を見いだせるはずもなく。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...