2012年11月20日火曜日

「第三極」。不可解な言葉、その2。

選挙をめぐり、連日、「第三極」という言葉が新聞に踊り、テレビが言い・・・。
誰が、いつ、言いだしたのだろう。この「第三極」という表現。マスコミが発信源だと思うのだが。それとも政治家か。

「極」という字をどう解釈すればいいのだろう。「きわみ」であり、物事の最上・最終的なところと辞書にはある。一方の果てという意味も書かれている。この上ないこととも。
そして第三極とは、天・地・人を指すと書かれている。辞書に書かれている言葉の意味は、今の現実にはさっぱり当てはまらない。

「第三極」、その漠然とした意味はもちろんわかる。どの政党を指しているのかも、なんとなくわかる。でも、やはり変なのだと思う。

だれもそれに気づいてくれないのだろうか。

イメージとしては、自公、民主、それらを一極、二極とするのだろうか。

そして彼らは言う。「既存政党」ではない「第三極」をと。既成政党とはどこだ。いつからあれが既成で、何時出来たのが「第三極」なのか。

その政党名で一回選挙やった政党は既成なのか。どうもそうではないらしい。

社民党や共産党は既成政党という範疇に入るのか。そうでもないらしい。
小沢一郎は率いる国民の生活が第一という政党はどちに入るのだ。

彼の一言一句にいちいち反応する気はないが、ついに単独過半数を目指すとまで言い切った橋下維新。
メディアも含め、世は「日本維新の会」に注目し、いわば「台風の目」のごとく扱う。世の関心が向いている。なぜだろう。

少なくとも、被災地とされる東北三県は、津波による、地震による、原発の爆発という「破壊」の様子を体感した。凄まじい「破壊」の姿を。日本中の人達もテレビの映像を通して、あるいは、後に、その場に行って「破壊」を見た。

その「破壊」は建物や発電所を壊しただけでなく、人間の心も「破壊」した。知らず知らずのうちに、我々は破壊されてのかもしれない。

破壊に遭遇し、体感し、そのあってはならない破壊の酷さに涙しながら、直接の被害者で無い人の「こころ」のどこかに、それは決して非難し、悪い意味だけでは無く、「破壊願望」があり、それを「変わる」きっかけとし、ある種の“快感”を持って、「破壊」を受け入れたような気がする。

橋下維新。彼は言う。破壊を言う。この国のことについて。官僚機構を破壊し、統治機構を破壊しようとしている。そう受けとめる。
「3・11」がもたらした「破壊」が、維新を誕生させ、注目を集めているのかもしれない。

また書く。映画「無人地帯」が記録し、訴えた破壊。映画は問いかけていた。「破壊は消費される」と。

「破壊」を体験した人たちが、政治の場で起きている「破壊に向けての蠢動」をどう受け止めるのか、何を感じるのか。新たな破壊を求めるのか。

破壊が亡国につながるのか、新たな建設となるのか。

保守、革新、その間の中道政党。善し悪しはともかく、わかりやすかった。
14の政党が乱立し、三極三極と言われる今度の選挙。難しい。

破壊者、デストロイヤー。それはプロレスの世界以外にも出現しているということ。

第三極。なんとも不可解な言葉。それを大まかな概念として、有権者はそれぞれの言語感覚で受け入れて行く・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...