2012年11月6日火曜日

だからテレビは嫌われる・・・。~テレビの正義~について

数か月前の政府の発表でも、東日本大震災による死者は18,877人、行方不明者は2843人に上る。
そして今は、遺体の“取り違え”が問題視されている。

未だ、多くの「死」と向き合っている被災地の現実。

一挙に2万人の命が奪われてのだ。

そして災害関連死というのがある。主として避難所暮らしが影響したもの。それも復帰庁によれば1633人、実際はもっと多いはず。そして自殺者も20人弱。これも実際はもっと多いはず。把握出来ていないものもある。

被災者の住む仮設の多くには、仮の仏壇が置かれ、家族は、毎日その死を悼む。
そうでない人も、生かされた人も、生き残った人も、それぞれが、突然に襲った「死」について考え、多くの「死」を悼む。

学友や家族を失った子供たちは、みな、こころに多くの傷を抱えている。子供にしかわからい傷を。

多くの人のそばに「死」があった。その「死」は現実のものとして、その人達の周りに横たわっている。その死をどう“消化”するのか、悩みに悩んでいる。
受け入れがたい死・・・。

東京発のテレビ番組。そのほとんどが、2年前に戻った。多くの「死」があったことが無かったかのように、連日、ゴールデンタイムのドラマでは、人が殺されている。それもリアリティーを持った映像で。
テレビ番組の中で、ドラマで「死」が「消費」されている。
殺人事件を扱わないとテレビドラマは成り立たないのか。それはNHKの大河ドラマにだって言える。

「死」を扱うドラマや小説、映画・・・。それらが“日常”として届けられているということ。テレビの罪は重いを思う。

不遇の死に向かい合い、テレビとしての役割、それは、テレビにとっての一つの正義と言ってもいい。それをたまに扱うのがNHKの、おそらくローカルだけの番組。

テレビのワイドショーが連日取り上げているのは、尼崎や岡山、高松を舞台にした大量殺人の猟奇的事件のこと。その扱い方は、殺されて人の目線では無く、興味は、殺した女の方に向けられている。

たまたま、震災前に読んだ。天童荒太の「悼む人」という本。見ず知らずの人の死を悼むという行為を続ける若者。

もう「悼む人」は居ないのか。テレビドラマに見入る人達は、「死」に対して思考停止に陥っていて、その無駄な時間を浪費していないのかとも。

そしてもう一つ。意味の無い、ただそうすればいいという高笑いの声だけが響く、テレビのバラエティー番組。
笑いを“封印”したかのような被災地の子供たちもいるというのに。

テレビは何も変わっていない。

死を娯楽の材料として提供していることになんの戸惑いも見られないテレビ。

「死」が娯楽に供されている。

もっとも、それは、今に始まったことではない。娯楽としての映画では、時代劇含め、外国映画含め、そこには人が人を殺すということが、何の抵抗も無く描かれていた。悪人が切られると観客は拍手喝采をしていたが。

人が人を殺さなければ、テレビドラマは成り立たないのか。「殺人」という“原罪”をテーマにしなければ作家は小説としての表現を出来ないのか。

日常の光景として人が人を殺す。それを見なれたせいではないと言いたいが、現実でも、なぜか安易に、そう、極めて安易に人の命が奪われているような気がする。

ひとくくりで今のテレビを語るのには無理があるだろうが、「だからテレビは嫌われる」と敢えて言いたくなるのだ。

これは真正面から向き合ったテレビの正義論ではないかもしれない。一つの断面からでしか捉えていないことかもしれない。
しかし、正義を考える上でのテレビの在り方は向き合う必要がある。人が人を殺すということは決して正義ではないと思うから。

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