2012年11月5日月曜日

「国家の正義」と「個人の正義」

もはや取り立てて誰かを、どこかを非難しようとしているものではない。
ただ、最近、正義と言う言葉が使われだした。たぶん、「正義」という言葉を使わないで済んだ、考えなくてもいい時代、そう、よに言う「失われた時代」があったからだろうか。ロストジェネレーションという言葉が生まれていたからだろうか。

いろんな意味で「思考停止」に陥ってしまっていたこの国。「正義」という普遍的なものを考える必要がなかったからではないか。

でも、それは、常に考えていなければならないテーマだし、探究される問題だと思うから、常に、いや、時折考える。

少なくとも、戦時下にあっての正義とは、国家の正義とは、戦争を完遂することであり、国民全部が戦争に“参戦”することが正義とされていた。その正義に背く者は“非国民”と呼ばれた。

でもよく考えてみよう。国家の正義、国家の大義はすべての国民にあてはまっているものだったのか。

戦地に赴いた兵士には、兵士としての正義があった。銃後の守りについている人たちには、その人たちの正義があった。その筈。

今、国家を統治している政治家や官僚。彼には彼らの正義がある。きっと皆、正義感を持って、事に当たっているはず。と思うのだが・・・。

自民党や公明党、野党はこぞって「解散」を言う。それが国民に対する正義だとして。帰結は見えてきたような気がするが、赤字国債法案や選挙制度改革を“人質”にしても、自分たちが思う解散総選挙という正義を全うしようと躍起になっている。
その法案が通らないと国は財政出動が出来ない。滞っている。地方交付金はストップされている。地方自治体は悲鳴を上げている。もちろん借金をしてでも、必要最小限の住民サービスは行われるだろう。と思う。

地方交付金を支払えない。これが本当に実情なのかどうか。もしかしたら“政権”も脅しの材料にしているのかもしれない。国家の正義、政党の正義の見極めは難しい。誰もが今の政治に辟易として居ることだけは事実だが。

敢えて言わしてもらう。東京都は財政健全化がなされている。ずいぶん前から。石原の功績ではない。
よって東京は不交付団体である。国に頼らなくて済む。だからか、都民の多くは政局談議に浮身をやつしているように思える。

そして、また敢えて言う。田舎者の国会議員が東京に居を移し、東京の垢に染まっていく中で、己の本分を忘れ、政党の“正義”なるものに埋没している。

滑稽だ。

もうすぐ冬になる。雪が降る。財政が厳しいが故に除雪車が揃わない。道路が除雪されないままでいると事故はきっと起きる。生命にかかわる事故も。極端な話しだが。
雪道でも車を駆って人助けに向かわねばならない人達もいる。消防だって、医師だって、ヘルパーさんだって。それは正義の仕事なのだから。そして事故になったら・・・。

国家や政党の正義が、どこかで起きるかも知れない事故によって個人の正義は果たされない事になる。

福島にとっての正義とは何なのか。福島県人の正義とは何なのか、福島に「対する」正義とは何なのか・・・。

正義を身近なものとして考えた時に、そこには様々な正義が存在する。

企業としての東電には、組織としての東電の正義がある。東電の社員には社員としての正義がある。それらが合致しているのかどうか。

除染事業を請け負った企業。ゼネコン大手。それらの会社には企業理念があり、それを“正義”と捉えているだろう。
しかし、多くの下請け制度の故か、直接、その作業に当たっている現場の作業員には、その手当が渡されていないという。

働いて対価を得る。それは労働者としての正義だ。それが曖昧な社会構造の中で踏みにじられている・・・。

被災者には被災者の正義があり、被災者が求める正義がある。だから、考えなくてはならない。
「これからの正義の話し」ではなく、「今、この国の正義」を。

被災地の、家を家族を流されて子供が言っていた。将来の夢はと問われて。
「朝起きて、メシ食って、働いて、夜になったら寝る。そんな普通の暮らしが夢かもしれない」と。

この子の言葉は、一つの正義の在り方を問うていたようにも聞こえた。
結論が出せない「正義」ということについて、考えれば考えるほどわからなくなる。

疲れる。でも、また、今日も明日も考えるかもしれない。誰かを批判、非難するということでは無く。

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