2012年11月9日金曜日

「善意」という正義

正義という言葉の、考えの、思想の何たるかもつかめないまま、自分では結論が見つけられないまま、またまた「正義」について書いている。
”正義“を語るエセ物書きと自分を思いながらも。

「善意」。おしなべて正義であると思う。およそ善に悪は無いのだから。

3・11後、多くの善意が寄せられた。物としての善意、それは募金に他ならない。メディアはこぞって善意の提供を呼びかけた。多くの人たちが、日本中だけではなく、他国からも“善意”が寄せられた。
その正義の行動としての善意は、その後どうなったのか。未だ持ってあの集められた義捐金の行方は定かではない。

その行方を明らかにすることはメディアにとっての正義であると思う。呼びかけた張本人としての。

なぜ、人々は正義の発露としての“善意”、募金に積極的に応じたのだろうか。

善意の見極めは難しい。

すくなくとも、あの当時、何かをしなければいけないという思いが募金に向かわせた動機の人もいるだろう。
被災地でなかった。被災しなかった人達は、その「安全」な場所に自らがいたことの“免罪符”として、善意を示すことで、“自己弁護”と無意識にした人もいるかもしれない。

そして、“善意”は時として人を苦しめる。

募金だけでなく、支援物資の数々。それが送られてということを、被災地の人は情報として知っている。しかし、現実にはそれが自分たちのところには来ない。届かない。

輻輳し、錯綜した善意は、やがて人を疑心暗鬼にさせてこともあった。

善意とうものは難しい。どう捉えるかも含めて。それは無くてはならないものであるから尚更・・・。

カネやモノもあとから登場したのが、「言葉の善意」。被災地や避難者に対して寄せられる、直接、間接的な、励ましや激励、慰めの言葉。その心情を汲み取っての好意的な言葉の数々。ありがたいとは思うのだが。

「東京でやっている福島の物産展で、福島の桃を買った。安くてうまかった。みなさんどんどん福島の物を買って応援しましょう」。こんな“言葉”がツイッター上で流される。それはリツイートされて広がる。

ちょっと戸惑う。美味いには決まっている。そこには本来の味に加えて、生産者の努力と心根が込められているはずだから。
でも、安いは違う。本来なら安いはずはない。安くしないと買ってもらえないから。生産者は身を削っている。
産地直送。でも、そこまで運ぶ運賃というコストはそこには含まれない。
流通経路に乗れば、どうにか採算ベースに乗せられるものもある。しかし、流通はおおむね買いたたく。

善意と安全・安心の狭間。そんな言葉が浮かぶ。県産の物を買ってくれる人たちの中に、どこか、安心・安全という“恐怖”を押し隠しているのではないかという心理がありやなしやという思い。

更には、自分たちは安全な場所にいるという安心感が生む、決して意図はしていないだろうが、押しつけの“善意”も。思い込みの善意も。

例えば沖縄に避難した人達。福島の、故郷福島の知人や友人、いや見ず知らずのひとたちにまで、ネットと通して呼びかける。「いつまで、そんな危険な場所にいるのですか。早くこっちへ避難してきてください。応援しますよ」。

それらの人達の正義観も基ずいた善意の押しつけ。善意が悪意に映る時も。

安全で安心なところにいる人達の正義は、時として場合により、上から目線に見えることもある。

正義とは難しい。その時代や環境によって、それぞれの意味が違ってくるということ。
時には“偽善者”をも生むかもしれないが、弱者となった被災者は、強者の真の善意を待っている、求めているということ。

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