なぜだかわからないが僕は多くの軍歌を知っている。大方の軍歌を知っている。そして歌える。今でも・・・。
日露戦争時に歌われたものも、この前の戦争で歌われたものも。
1945年8月15日をもって、日本の全てが劇的に変わったわけではない。
戦争の残滓はいたるところにあった。戦争が終わったのに、なぜかラジオからも、街中からも軍歌が聞こえていた。
戦争を鼓舞するものも、たとえば露営の歌のように、戦争を悲しく歌ったものも。
稲田行革相が靖国神社を参拝した。「お国のためになくなった英霊を・・・
」とインタビューに答えていた。
「お国」って何なのだろう。「御国」か。
♪お国のためだ、構わずに、遅れてくれなと目に涙♪
ここはお国の何百里・・・で始まる長い歌。“戦友”の中の一節。
「歸國」という題名のテレビドラマがあった。倉本聰の作品。2010年に放送されたはず。
平成のある日、深夜、東京駅の新幹線ホームに軍用列車が滑り込んでくる。
降り立ったのは一人の士官が率いる部隊。
英霊達だ。
彼らの使命は「平和になった祖国」の姿を、南の海に眠る兵士たちに伝えることだったが。
24時間か、それぞれ自由行動が許された。故郷に帰る。故郷は姿を変えていた。会いたかった親もいなかった。恋人のもとを訪ねる。もちろん人の妻だ。そこでの醜い人間模様を見る。
さまざまなケースが登場する。林立する高層ビル群。無くなった田畑。高度成長の挙句、物資的には豊かになったものの、自分たちが召集された時の日本はそこには無かった。
「ゴースト」として見た60年後の日本。それが、そのために戦って命を捧げた「御国」だったのかと。
彼らは思う。彼らが見たのは、彼らが思い描いてた祖国の有り様では無かった。
再び東京駅に集結した部隊。悲しみを秘めて、サイパンに向かう軍用列車に乗り込む。
「俺たちが帰りたがっていた国はこういう国だったのか」と。
帰国ではなく、なぜ歸國なのか。そう、帰るも国も、その字で表していた時だったから。彼らが戦争に行ったのは。
「お国のため」。その言葉は、まさに今でいう“マインドコントロール”だった。
「お守り言葉」という考え方がある。その言葉には強い響きがあり、それを信じる。
個々人がどう考えていようと、国中が「お守り言葉」に支配されていた。
御国の為に。それは、全くの正しいことだったのだ。言葉にマインドコントロールされていたのだ。
祖国が平和になるための戦争だと信じていたのだ。
昨今、またもや「お守り言葉」に類するような風潮が出現している。
例えば、積極的平和主義という。対比する言葉は無い。
消極的平和主義なんていうのは無い。
集団的自衛権の行使により平和を確保する。その言葉の意味がわからない。
平和でないことに平和と言う言葉が使われ、その“危険さ”を消してしまうような言葉のマインドコントロール。
言葉の意味はよくわからないままに使われている「お守り」。
「歸國」はテレビドラマ化され、舞台化もされた。あのドラマを理屈抜きにもう一回見てみたい。直視して。
英霊が祀られている靖国神社を訪れたシーンもあったはず。
2014年8月19日火曜日
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