2014年8月1日金曜日

「責任」が“存在”しない国

東京の第五検察審査会が、福島原告団の訴えを入れ、一度は不起訴になった当時の東電幹部に対し、起訴相当と判断した。
何にしても、検察は再捜査せねばならなくなる。
事故を巡って、その責任を巡って、法廷の場で争われることになった。二回にわたって審査会が議決すれば「強制起訴」となるからだ。


その結果がどう出るか。予断は許すまい。

事故を巡って、原発をめぐって、司法の判断が問われるということだ。
検察と言うところは「体制維持派」だ。ほとんどの検察官は公務員と同じような“感覚”を持っている。出世だ。
だからどこまで本気で再捜査をするかどうか。疑念はある。

司法の有り様が、いままま、あらためて問われるということ。
検察審査会の議決は、かなり綿密な“調査”をしており、津波の想定にとっても、いままで明らかにされていなかった15メートル以上という予測が東電の中にあったことを明確にしている。

国民感情、国民的常識にかなった「起訴相当」。

判例主義に凝り固まっている裁判所が、この審査会の意思をどれだけくみ取れるか、新しい挑戦が出来るかだ。あえて福島県民の感情とは言わない。

前にも書いたが「誰も刑事責任を問われない、追わないというのが理解できません。不思議です。間違っています」。語気鋭く言っていた、元有力政治家の孫の言葉をまた思い出している。

福島原発事故に関して、誰も責任をとっていないというのは、明らかにおかしいことなのだ。東電幹部だけではない。国策として原発を推進してきた国も同様だ。

責任を問われる恐れはない。そう踏んだから再稼働が高らかに叫ばれるのだ。
裁判所が有罪判決を出せば、再稼働を巡る論議にも影響するはずだ。
政府事故調、民間事故調、国会事故調。皆、尻切れトンボだった。強制権が無いから踏み込めなかった。

事故からやがて3年半。司法の”正義“に期待したい。

東電幹部は「企業責任、経営者責任」にも言及せず、その職を去っている。
国の責任者は、いまだ政治家で有り続けている。
監督官庁の、推進の大本だった経済産業省。その当時の幹部、担当者は、もはや多くが退官。天下りでの“優雅な”日々を、恥じることも無く送っている。

責任の無い国の見本みたいなものだ。

避難者、仮設暮らしの人の中には、責任うんぬんよりも今の気持ちは明日の生活のことだという人も出てくる月日の経過なのだ。
間もなく来るお盆。墓参りの人は少なくなるだろうと、“検問所”に働く人は見通している。

原発の責任・・・。
川内再稼働。政府はその責任は無いという。規制委がOKを出せば、あとは地元の判断だと。
規制委員会委員長は言う。基準の適合審査をしただけで、再稼働を決めるのは国だと。
自治体は、戸惑う。はっきり物を言わない。
九電も責任については口を濁す。

責任のたらいまわし。それが原発を取り巻く日本の構図。

あの小泉だってこの構図をおかしいと言う。でも、言うだけ。

「安全体制を構築する」。官房長官は言った。ならば構築できなかったら責任は国にあると言っているに等しいのだが。

民主政権時、再稼働は「4大臣会合」で決めると決めた。たった4人の関係閣僚だけで決めるのかと批判した。でも、そこには多少なりとも政府の責任が存在していた。
その「4大臣会合」ですら、安倍政権は否定した。責任の場から逃れた。

普通の国民感情なら、国民の常識からすれば、原発の導入は政治が決めたもの。だから政治が責任を問われねばならない。そう思うのは当然だと思うのだが。

「政府の責任で、国が前面に出て事故収束を図る」。そこにも責任という言葉は使われていたが、結果、たんなる「口約束」、「その場しのぎ」だったということ。

長々、お目汚しでございました。

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