2014年8月24日日曜日

「水の力」

広島の大水害。まだまだ水は山の沢をつたって町に流れ出している。
土砂が、汚泥が、救出の行く手を阻み、救援活動もままならない。
またも雨が降るとの予報もある。

山にはコンクリートによる「砂防工事」がされていた。自然が生み出す水。大量の水は「人の力」「人の努力」「人の知恵」を瞬く間に破壊した。

多くの被災者がおられる中で、不謹慎の誹り免れないかもしれないが、あらためて思う。自然の力の凄さを。水の力を。

人類は水には勝てないということを。

福島第一原発事故現場。依然として最大の課題は水だ。
地下水を“直接”海に放出する。

建屋に流れ込む水。たまる汚染水。凍土壁を作って地下水の流入を遮断しようとした。凍らない。漏れ出す。
「トレンチ」に凍結管という装置を作り、水をせき止めようとした。凍らない。

致し方ない。漏れている部分に氷やドライアイスを入れて凍らせようとした。
しかし、万全の策では無かった。氷の壁で止水するのは無理となった。止水の障害となっている配管などがある。そこに充填剤をということになっている。

どうみても文字通り、「つぎはぎだらけ」の策ではないかと。

凍らせるために使われて氷やドライアイス。金額にすれば320億円だという。

320億円が、それこそ「水に流れた」ということ。

技術の粋を集めたところのはず。集めているはず。しかし・・・。湧き出してくる水、流れ込んでくる水にはかなわない。

水の流れは速い。広島でもそうだった。100メートルを10秒で下ってくるという。
打つ手は無い。

流れている水を凍結させるという発想は、土台、無理だったのだろう。
壁に描いた餅ってことか。

結果、水は浄化して海にと言う“構想”も崩れる。

流れ込んでくる水は、汲みあげてタンクにいれるしかないということか。

汚染水タンクは増設に次ぐ増設。1Fの敷地内に林立するタンク。タンク。

それを眺めながらの収束作業。

あの野田内閣時代の「収束宣言」とは何だったのか。その「宣言」だけは、今でも“継続”されているとう怪。

発電時も含め、原発を支えていたのは「水」。事故後、おびやかされるのも「水」。

広島では依然として水の脅威にさらされている・・・。

手立てはないものか。無いのだろう。人類は水には、自然には克てないのだから。

今さら、永平寺の水五訓を持ち出すまでもないが。

理論や技術は進化しても、「摂理」は何も変わっていないのだ。


氷が溶けたら何になる。そんな質問を投げかけた児童詩人がいた。

大人は答える。水になる。と。

子供は違う。考えて想像力を働かせる。子どもの答えは「春になる」だった。

一般的な「大人の概念」「大人の思考」「既成概念」「経験則」。いわば硬直化した発想と言うべきか。

子供のような柔軟な発想力。それを要求するのは無理があるのだろうな。

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