2014年8月31日日曜日

慣れたのか、慣らされたのか

30年、ずいぶん先のことだ。中間貯蔵施設は30年。それの帰趨は予想できる。
廃炉まで30年か40年、その帰趨は見えてこない。

何かが進んで、何かが終わったのか。
1F構内で。さっぱりわからない。

あれほど騒がれた4号機の燃料棒取り出し。今、何本移送出来たのか。どこも伝えてくれない。

伝えられないことに慣れてきている。

3号機で、クレーンの操作ミスか。燃料プールに“機器”が落下した。線量には「変化はない」と東電は言う。

世が世ならば(変な言い方だけど)、大騒ぎになるアクシデントだ。でも、東電の発表が報道されただけで、「後追い」は無い。

1Fでの出来事は、そこでは常に何か異常があるということに慣れてしまったのだろうか。

他核種除去装置、ALPSはどうしているのだろう。「正常運転」はされていないはずだ。
でも、増設されるという。

地下水の汲み上げ、海への放出。されているのかいないのか。凍土壁のこともそうだ。
結局、1Fは、あの当時とさしたる変わりは無いということなのか。

慣らされてしまっているのだろう。

“惰性の回転”の中に思考がうずまってしまっているのかもしれない。

人が車が通れない箇所が多々出来た。検問がある。それにも慣れた。
仮設がある光景にも慣れた。仮設に住むことにも慣れた。

慣らされている。

「カネで問題を解決する」。そんなことにも慣れてきたのか。

もう3年以上も「怒りまくっている」。毎日怒る自分にも慣れた。怒るということは疲れることだ。その疲れにも慣れた。

怒りっぽくなっている。日常の人間関係でも、些細なことで怒ってしまう。結果、「ひびをいれている」。

時々“視野狭窄”に陥っていることにも気づく。自己嫌悪感も増幅される。

世の中、すべてが気に入らないということになる。いつまで、こんな“感情”が持続できるのか。

見ざる、聞かざる、考えざる。惰眠をむさぼっていれば、それはそれで“楽な老後”かもしれないが。そうはなりたくない。

八月も終わる。

ある種、無意味に過ぎて行くような月日の経過を嘆くことにも慣れた。

慣れてはいけないのだ。忘れてはいけないのだ。過去が忘れ去られることにも慣れてしまったような。

荒ぶる自然の脅威にも人は慣れてきてしまっているのかもしれない。

政治の世界の馴れ合いにも慣れているような。

やがて、“暴走する”権力者がいることにも慣れてくるのか。

「家畜人ヤプー」であり続けるのか。家畜人に慣れるのか。


福島にある「慣れ」だけの問題ではない。沖縄に米軍基地があることにすら、多くの人が慣れてしまっている。それを“異常”だという感覚が薄らいでいる。

昨夜も仲間の集まりがあった。何かの拍子で、戦後の食糧難のことが話題になった。

どこにでも、食べ物がある。酒もある。食べ物があるということの有難味は無い。「そこに在ること」に慣れてしまっている。

パソコンがあり、出先でもスマホがある。それらが「在ること」に皆、慣れてしまった。

時々、パソコンがおかしな動きをしたり、不調になることがある。普通にあって当たり前だったものが変調をきたす。慌てる。

どこかで「慣れ」を断ち切らないと。

不信感。すべてに対する不信感。「不信」を抱いたまま、このまま行くのか。

おかしなことを書いている日曜の夕方。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...