2014年8月20日水曜日

「異常が日常になっている」ということ

広島安佐南区、北区の豪雨災害。言葉も無い。京都も高知も九州も。

家がなぎ倒され、土砂で埋まり、濁流が町中を奔流する。規模はともかく、「3・11」で見た光景が重なる。

どうすることも出来ないが、東北の人にとっては、この西日本の豪雨災害。他人事では無いはずだ。

死者、不明者30人以上。亡くなった方も中には救助活動をしていた消防指令もいるという。

悲しみにたえない惨劇。

話題にはならないが、犬や猫を飼っていた家もあるはずだ。どうしただろうか。そんなことも思ったりする。

テレビで見る限り、そこは山間部、山に挟まれたような地形の場所。一見、住宅街。そこまで、宅地開発しなければならなかったのか。

かつても大規模な土砂災害が発生したところだという。人口増によって宅地化されたところだとも言う。
危険性が指摘されていたところだともいう。

ゴルフを中断しても官邸の対策本部に安倍が詰めなければならないような災害。

広島県は災害対策法の適用を申請した。自衛隊の派遣を要請した。
自衛隊が出動しなければ対応は無理なのだ。

一夜にして奪われた生活。何よりも死者。

山に雨が降り、その水が流れ落ちる。激流となって。

ここ数年でもなんどそんな光景を見て来ただろう。

他人事のようで申し訳ない。

異常気象のせいだという。異常だらけだ。日本だけではない。アメリカでも大干ばつ、山火事。あまり報道されないが、アメリカの食糧事情も脅かしかねない。

気象予報の精度は格段に進歩した。降雨量はある程度予測できる。山がくずれるかどうか、そこまではまだ未知数なのだろう。予想の範囲であっても。

避難勧告も指示も出せるような余裕はなかったのだろう。

他地区の豪雨災害は、河川の氾濫だった。

かつてない降雨量。観測史上経験の無い降雨量と昨今しきりに言われる。

異常気象、それはもはや「異常」ではなく「日常」となったと理解する時なのだろう。

よほどのことが無い限り、自然災害は防ぎようがないのかもしれない。

おそらく地球はそんな世紀、時代に突入したのかもしれない。

広島だけではない。この夏の豪雨で家を流され、壊された人達。これからの生活再建をどうしていくのだろう。

自分自身に置き換えてみる。絶望と自暴自棄に陥るだろうと。

自然災害に対して、個々人への補償は無い。基本的には。国からの支援があってもそれはインフラ整備に回される。個人の住宅にはまわらない。

自治体からは1万円程度の見舞金だ。保険に入っている人は多い。しかし、その保険の査定には時間がかかる。待っていられないくらいの時間が。

数々のチェック項目。保険会社も支払いを出し渋るだろう。

今は晴れているかもしれない。「日常」と化した「異常」は、明日にもまた大雨を降らすかもしれない。

他人事のようで申し訳ない。方丈記を連想するのだ。

住民も自治体職員も不眠不休の日々が続くだろう。食糧のことも気になる。
ボランティアが駆け付けるだろう。自衛隊、消防の必死の活動もあるだろう。

天災に立ち向かう人知のなんと「やるせない」ことか。

自治体だって全国からの応援を求めないと仕事になるまい。数々の「住民対応」。

天災に対して経験則は何の役にも立たない。いくら国土を強靭化してもいかんともしがたいことがある。

三陸の民とてそうだった。此れより下に家を建てるな。先人の教訓があったにもかかわらず、住まざるを得なかった“歴史”。

もはや何があってもおかしくない。3・11で学んだことはそれだけ。

歯がゆいが、ただテレビの画面を見ることしかできない哀しさ。
あらゆることが、自然に対しては無力であるということ。

晴天よつづけ、救援活動の迅速なることを祈る。失われた命よ安らかなれ。救出されて人達に一日も早い安堵を。

歯がゆい、無力だ・・・。これを書いている自分が。メディアよ、今後もなるべく長く伝え続けてくれよ・・・。

とにかく「異常」が異常でなくなった。その認識だけは持たないと。

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