2014年8月13日水曜日

「餓え」を知っている世代、知らない世代

お盆の入り。新盆(あらぼん)参り。こっちではなぜか(あらぼん)と言う。
迎え火を炊く習慣も大方無くなったか。茄子と胡瓜で作った精霊馬の風習も大方無くなったか。

ニュースは帰省ラッシュをいつものように伝える。
帰省してきた家族を、国の親たちは親戚たちは、ご馳走を作って歓待する。
長旅につかれたからだを待ち受ける故郷の味。

墓参りの人の流れが絶えない。真夏に黒い服装が行き交う。
原発避難区域。一時帰宅の人は数として減って来たようだという。
通行証をチェックしている人の話。
盆の供養もままならぬのか。

昨日の塾。食と農の話をした。
食糧自給率のこと、農政のこと、第一次産業従事者が減っていること。

先の戦争。大勢の兵士が民間人が亡くなった。暑い東南アジアの島々で。亡くなったのは敵に撃たれて死んだだけではない。多くの餓死者がいたということ。

「食わなければ人間は生きていけない」。

食えなければ死ぬ。

戦後、まったくの食糧難だった。毎日が餓えていた。親は必至で食料の確保に尽力してくれていた。

コメを、ごはんを食べられるようになったのは配給制度が出来てから。
いわゆる代用食で飢えをしのいできた。その中にサツマイモがあった。母親の郷里から送られてくる素麺があった。

毎日、来る日も来る日もサツマイモか素麺。ある時から、それらを胃が受け付けなくなった。

塾の後の懇親会。サツマイモ入りのご飯だった。芋を外して食べていた。未だにあの“トラウマ”から抜け切れないようだ。

戦争を知っている世代と、知らない世代のことを時々書く。それを言いかえれば「餓えていた世代」と「飢えを知らない世代」という分け方もできるかもしれない。

日本のアジア各国への植民地化政策。戦地拡大。その要因の一つは「食糧の確保」があったとも思える。食糧を確保するための戦争。その地で悲惨な餓死・・・。

何でも食べたという。外地の戦地では。外地からの引揚者は。草でも動物でも、何でも食べたという。

内地にあって、親の庇護のもと、なにがしらの食べ物にはありつけていた。でも、サツマイモと同じように、あの醤油の出汁だけのメリケン粉のかたまりをちぎって入れていた「すいとん」もある時から喉を通らなかくなっていた。

進駐軍とギブミーチョコレート。チョコレートが欲しかったわけではないはずだ。食べ物が欲しかったのだ。食べ物の代名詞としてあったチョコレートなんだと思う。

やがて「豊かな」時代になった。いまどき、どこへ行っても食べ物が溢れている。
食べ物が溢れていることが当たり前になった時代。食糧難のことなどは多くの人が考えない。

でも、日本の食糧自給率は減っている。コメを耕さない田んぼも増えた。コメを作っても割に合わないからだ。

都会の店頭には、飲食店には外国物の食材や食品が並ぶ。エネルギーとしての石油だけではない。生きていくために必要な食糧まで、輸入に依存しているのだ。

「食の安全保障」という思考が成り立つ。自給自足が成り立つ。
それが、どれほど真剣に考えられているのだろうか。

福島では多くの豊かに仕上げた田畑が汚染された。海が汚染された。両としての食の安全が脅かされているのだ。

そのことをどれくらいの人が認識しているのだろうか。

サツマイモご飯から一歩引いていた自分。あんなに餓えていたのに。慣らされているのかな。食糧の確保に。

ダイエットだ、たんぱく質がどうだ。コメ離れだって進んでいる。なんだべな・・と思う。

食の安全とは賞味期限であたり、健康に害を及ぼさないことだと思われている。それを否定する気はない。
全く腐ったもの以外は、虫がついていようといまいとそれを食べるしかなかった時代。いかようにも食べ物を選別できるようになった時代。

飢えが何をもたらすのか。飽食が何をもたらすのか。

「生きる」という根源での世代間格差ってあるような気がして・・・。

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