2014年8月28日木曜日

「予見は可能だった」という裁判長の見解

以下、地元紙の記事の引用である。

「潮見裁判長は、原発事故に伴う東電の自殺者の予見可能性にも触れ、「(東電は)原発事故が起これば、核燃料物質が広範囲に飛散し、居住者が避難を余儀なくされる可能性を予見できた。避難者がさまざまなストレスで、うつ病をはじめとする精神障害を発病する者、自殺に至る者が出ることも予見可能だった」との見解を示した」。

一昨日あった福島地裁での“原発事故関連自殺死”裁判の判決。

まさに「予見可能」だったのだ。

予見。広辞苑にはこうある。「事がまだ現れない先に、推察によってその事を知ること。予知。」と。

今、予見、予見の可能性という考えを司法の場で語られたことは大きな意義があると思うのだ。

大地震の後には必ず津波が来る。予見の範囲内だ。津波の高さ、大きさだって過去の記録、経験を当てはめれば予見の範囲内とも言える。

そもそも、原発を作った時から、事故が起きる、起きたらどうなる。予見の範囲内のはず。

予見という言葉を、時々、想像力という言葉に置き換えて使ってきた。そして我々は気づいた。あらゆることに想像力が欠如していたと。
予見は排除されていたと。

裁判長が予見の可能性に触れたことは、他の原発裁判への影響は大だ。

予見し得る立場に居たものが予見しなかったこと。知っていながら知らんぷりをしていたこと。大勢いたはず。

SPEEDI、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムは、それが公開されなかったことを含めて活用されなかったことが大問題になった。

そのSPEEDIはお役御免とばかりに事実上、今後は使用されなくなる。空中からの実測値に変える。いや、単純に“コンパスの同心円”で決めるという。

「SPEEDI」問題だって予見の範囲だったはずなのに。拡散予測は出来たはずなのに。

広島の大雨による大災害だって予見出来る、予見可能なものだった。過去に経験もあり、地質学者、土木学者も指摘していたのだから。

行政は予見を怠っていたということにはならないか。

重ねて言う。予見とは想像力に置き換えられると。

想像力を働かせれば、災後の対策は、避難にまつわるさまざまなことどもがもう少し、どうにかなっていたであろうということ。

今、まさに日本は「災害列島」であることを思い知らされた。日本だけではない。地球規模で災害が多発している。

それとても、予見の範囲に当てはまることもある。

でも、人は、「予見」を避ける。本能的に「予見」を避けたがる。故に「人災」と呼ばれる所以だ。

想像力の欠如。あらゆることに対して言えることだ。それは「考えること」と言ってもいい。
予見を避けることは不作為にも通じる。

予見の可能性。裁判長の見解に触れ、“覚醒”させられたことの多々あり。

「思考停止社会」への、「責任回避社会」への“警鐘”とも受け止めるが。

それにしても、この裁判のマスコミの扱い。なんと小さい事かと。

原発事故を巡って示された東電の責任を問うた初めての判決。読み解き、解説含めて、全国紙はもっと大きく取り上げて然るべきことだったのではないかと。

福島だけの問題ではないのだ。

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