♪あたしの海を まっ赤に染めて
夕日が血潮を 流しているの
あの夏の光と影は どこへ行ってしまったの
悲しみさえも 焼きつくされた
あたしの夏は あしたもつづく
想い出さえも 残しはしない
あたしの夏は あしたもつづく♪
石川セリが歌った「八月の濡れた砂」という曲。映画の主題歌である。戦争を
歌ったものでは無い。でもなぜか八月になると聞きたくなる歌である。
感傷的な思いをすべて拭い去る。どこかで69年前の広島、長崎を歌った歌に
聞こえてくるのだ。
8月6日、9日、そして15日。その日がそうであったように、熱い8月なの
だ。
その頃兵庫県の姫路にいた。姫路大空襲というのがあった。7月のはじめの頃。
4歳。記憶は曖昧だ。とぎれとぎれだ。
家の後ろにあった土蔵を焼夷弾が直撃したという。祖母、母、弟妹。がむしゃ
らに逃げていた。あちこちに焼け焦げた臭いがあった。防火水槽の中に折り重
なった死体があった。逃げる途中に踏切があった。踏切は遮断機が下りていて、
長い、長い、果てしなく長い軍用列車が、貨物列車が走っていた。途切れない。
後ろから火が迫ってくる気配があった。ようやく踏切が開き、トウモロコシ畑
に身を潜め、二夜を明かした。途中はぐれた祖母は防空頭巾に火が付き、用水
路に落とされ、一命を取り留めた。顔には大やけどの跡が、ケロイドが残った。
飾磨というところの農家とおぼしきところの離れを借りることが出来た。東京から駆け付けたのか、父親もそこには居た。そこで「ピかドン」の事を聞いた。長崎のことも聞いた。数日後だったはず。黒い雨の事が話題になっていた。外出は許されなかった。
母屋のラジオの前に大人たちみんなが集まっていた。そこで玉音放送を聞いた。
どことなく「安堵」の空気がそこを支配していたようだった。
どうやって来たのかわからない。その後、東京三河島の復興長屋の一部屋に居
た。そこに1年。戦争で焼け残った初台の家に住むことになった。
広島には何回も行った。何回も「広島」を見た。長崎にも行った。大学生時代。
「原爆記念館」に長時間いた。見るのが辛い、見るべきものを焼き付けた。
広島の死者は少なくとも14万人だという。長崎も少なくとも7万人だという。
正確な数字は、それを数字で語ることの是非はともかく、数はまだわからない
のだ。
国家としての戦争。その視点で語られる原爆がある。被災した、死亡した人た
ちの目線で、事実で語る国民としての戦争がある。
あの夏の光と影は、その地に残されている。
皮肉なことに、アメリカでは今なお、広島、長崎は悲劇として、アメリカの罪
として映画化され続けているとも言う。
原爆投下はアメリカの戦力をロシアに誇示するためだった。まさに「国家とし
ての戦争」だ。
被ばく者の人生。出自を隠しながらも生きながらえねばならなかった広島、長
崎の人。そこにあるのは「国民としての戦争」の物語。
未だ持って、国家としての戦争と国民にとっての戦争。その乖離が埋められな
い。
昨今で言えば、まさにガザの光景だ。
国家としての戦争。抑止力としての核。その延長線上に、不連続な連続として
原発がある。国にとっての原発。被ばくにおびえる市民。
あの夏は明日も続く・・・。消えないのだ。ノーモア、ヒロシマならノー、モ
アフクシマなのだ。
見て、知って、忘れない。八月の海に流してはいけないことの数々。暑い八月
の夏は重いのだ。
2014年8月4日月曜日
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