6日、頭を垂れて黙とうした。きょう9日、鐘の音に祈った。11日、沈黙の海を想う。15日、天皇陛下の言葉に心耳を澄ますつもりだ。
「ナガサキ」。田上市長の平和宣言は世界に向けて発せられた。穏やかな口調ながら、決意をにじませた語り口だった。
そして「福島」にも言及した。福島への支援を続けると述べた。
「集団的自衛権の議論を機に、平和国家としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされている。日本国憲法9条がうたう平和主義の「戦争をしない」という誓いは被爆国・日本の原点であり、被爆地・長崎の原点でもある」。
「被爆者たちが自らの体験を伝え続けた平和の原点が揺らいでいるのではないかという不安と懸念が、急ぐ議論のなかで生まれている」と憲法解釈変更への危機感をにじませ、国民の声に耳を傾けるよう政府に求めた。
参列した安倍はじっと目を閉じ、世界に向けた宣言を聞いていた。
被爆者代表の75歳になる城䑓美弥子さんの「平和への誓い」の言葉はもっと“辛辣”だった。
自らの被爆体験を語りながらこう言った。
「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本の憲法の精神を踏みにじった暴挙だ。武力で平和を作るというのか。
日本は戦争が出来る国になる。
武器の輸出は戦争を招く。いったん戦争が始まったら、戦争は戦争を呼ぶことは歴史が証明している。
被爆者の苦しみを無かったことにするようなことはしないでください」。
やはり安倍は目を閉じたままだった。
市長の平和宣言も、被爆者代表の平和への誓いも、事前にその文案は国に届いている。二つの問いかけに安倍はどうこたえるのか。
何も答えていなかった。
世界にメセージを発することもなく、“内向き”の当たり障りのない挨拶。
一市長の想いも国は歯牙にも掛けない。生死の淵をさまよい、今なお、「語り部」を続け、命あり限り、原爆を語り継いで行くという一国民の訴えも“無視”した。
式典が終わったあとの同行記者との会見。質問も答弁も「政局」だ。「人事」だ。
なぜ、この祈りの日に、記者も安倍も、話題は改造人事なのだ。
これが「平和日本」の今の姿。城䑓さんも「福島」に言及していた。
世界は、このヒロシマ、ナガサキでのこの国の指導者の言葉をどうとらえるのだろうか。
子供たちが歌っていた。「あの子」という歌を。
福島から招かれた二人の高校生は言っていた。「原爆も原発も根っこは同じだと思う」と。
被爆を歌う会の被爆者らのメンバーは「もう二度と」というオリジナル曲を歌いあげていた。
地元の高校生も歌っていた。
大人も歌で語り継ぎ、子どもは歌うことで自分たちの置かれた場所を感じる。使命も感じたと察する。
無かったことにしようかとするような国。原発はどう語り継がれるのだろうか。
八月は、さまざま考える月なのだ。この「国」に生まれたものにとって。
2014年8月9日土曜日
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