今日は「時の記念日」だという。これだけは小学校で教えられた。
1920年、東京天文台が決めたものだという。6月10日とは、もちろん旧暦であるが、日本書紀によれば天地天皇が水時計を使った日ということに由来するらしい。
西洋の諺には「タイム・イズ・マネー」なんて言うのがある。「時は金なり」だ。
なるほど、「時間はお金のように貴重なものだから、無駄に費やさず、有効に使うべき」という戒めだとか。
時間と言う、いわば“無限なるもの”と、カネという“即物的”なものを並立させているところがいかにも西洋らしい。
時間と言う概念と金という目先のものを「並立」「対比」させることに違和感を覚えるのだが。
同じような意味の言葉に「一刻千金」というのもあり、「春宵一刻値千金」というのもあったような。
時間と金。同じ「価値」を持つものだろうか。少なくとも今は、お金で時間を買う時代なのに。
新幹線、リニア新幹線。まさにそれだ。“便利”な家電製品の数々。家事の時間は大幅に短縮される。家電を買うことによって得られる時間。
それらで得られた時間を人はどれくらい有効に、大事に使っているのだろうか。
いわゆる「残業問題」もそうだ。
「生きる」ということに於いては、時間は余り残されていないような気がする。若いころは、生きる時間は無限のような感覚がどこかにあったが。
無駄な時間を過ごしてきたような気もするが。
今、「福島」は時間と金との戦いの時期だ。
少なくとも原発の廃炉に向けた作業。放射能による汚染物質の処分。はたしてどれだけの「時」を必要とするのか。廃炉に向けた作業も、そのスケジュールは遅れに遅れている。
遅れれば遅れるほど、その費用はかさむ。
除染だって待った無しの時間の問題なのに、それが「効率的」に行われているのかどうか不可思議だらけだ。
除染や賠償金で約9兆円ものカネがかかる。東電に支払い義務が課せられているものの、国は金融機関から借金をして、東電に「貸して」いる。
借りた金には利子が付く。
3・11から4年数か月の時間。その時間をカネに換算しても詮無いことではあるが、どこか「無為」であったような時間というきもするし。
腕時計は電波時計というのを持っている。還暦祝いに友人たちが贈ってくれたものだ。当時は高価だった。今は驚くほど安価だ。
郡山から川内、富岡、大熊に抜ける国道288号。一時強制避難させられていた都路村には電波塔がある。どうやらその電波塔から発せられる電波が腕時計の時を刻んでいてくれているようだ。
日本の電波塔はもう一つ。兵庫県の明石。グリニッジ標準時を刻んでいる。
288沿いには「電波塔のある町」という大きな時計を模した看板があった。
東に向かう時の一つの行程の時間の目安だった場所。
飯舘村も時間がゆっくり流れているような村だった。会津の只見川も時間がゆっくり流れる川だった。
都路にしても、飯舘にしても、「失われた時間」がある。その「失われたもの」に対しての“対価”としてのカネの問題がある。
そして、今の時代。
時間はもとより、すべてのことに於いて「カネ」が優先されているような時代。
「時は金なり」とう諺が、なぜか“残酷”な言葉のようにも思えてくるのだが。
2015年6月10日水曜日
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