2015年6月29日月曜日

「2014・6・29」、「2014・11・11」

去年の今日、6月29日。新宿駅南口の歩道橋の上で一人の男が身体にガソリンをまいて焼身自殺をはかった。
集団的自衛権反対を訴えて。

多くの人からの記憶から失われている事件だ。

事件発生時はツイッターなどを通じて現場の様子が流され、混乱した街の様子が伝えられた。
男は安倍政権への抗議文を読み上げ、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」の詩を読み、自ら火を付けたという。

死には至らなかったらしい。病院に搬送された。「警察では回復を待って事情を聞く」と新聞には書かれていた。

しかし、結局「続報」には接していない。何処の誰で、どんな経歴のある人で、その後どうなったかも含めて。

知り得たのは「そんな事件があった」ということだけだ。

マスコミには「自殺報道」に対しての倫理綱領のような、不文律のようなものがある。
「模倣犯が出る可能性があるから」として報道を抑制するという倫理観だ。

著名な芸能人が自殺した時、「後追い」のような人が出たからだという。

彼が「正気」であり、「確信犯」であったのなら、“その後”は伝えられるべきだったと思う。
取材しなかったのか、警察がそれ以上の発表をしなかったからか。

なぜフリージャーナリストという人達が追わなかったのか。なぜルポライターがそれを書きつづらなかったのか。

今、政治の場での集団的自衛権をめぐる論議について各マスコミは報道に必死だ。今を伝えることだけで手一杯なのだろうか。

模倣犯が出るということを避けるとはどういう事なのか。
生命を第一義とするということか。世間を騒がせないということが第一義なのか。それとも・・・。極力「伏せたい」ということなのか。

それは模倣犯であったのかもしれない。去年の11月11日の夕方、東京の日比谷公園でやはり一人の男が焼身自殺を図った。


 “集団的自衛権容認に基づく安保法制の立法準備及びガイドライン再改定などを即刻やめよ”“《沖縄の辺野古・高江の基地建設を今すぐ中止を》。
そんなメッセージを携えていた。遺書だ。衆参両院議長と安倍首相に宛てた。
「新田進」とペンネームを記していた。 そのペンネームからこの人の像が垣間見えた。

 都内に住む60代。数年前まで裁判所に勤めていた。そのかたわら、ペンネームで様々な活動をしていた。その一つが映画作りだった。
 1995年に沖縄で起きた少女暴行事件の抗議集会に行き、「軍隊のない、悲劇のない、平和な島をかえして」と訴える声をカメラでとらえていたという。原発や憲法について考える市民団体にも加わっていたという。

そんな「死」があったことをどれくらいの人が記憶しているだろう。
今、高まりを見せる抗議集会やデモ。国会前だけではなく渋谷にも全国にも及ぶ。
老いも若きも参加している。

それを知っていたら彼らの「選択」はどうだったのだろうか・・・。

政治の場では「リスク」というあやふやな言い回しで、“想定内”の自衛隊員の死の事が語られている。
70年前にあった多くの死の事実、体験はどこか「他人事」のように語られる。
「死の現場」から戦争が語られてはいないようにも思える。

一人一人の死。その視点から語られることでもあるはずなのに。
それは「3・11」にも、原発事故に関しても共通する視点だ。

伝えれる死もあれば、伝えられない死もある。一人の人の行為が世の中を動かすこともある。無関係な時もある。

「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ。眠らせてくれないかい」。そんなネロの声が聞こえてきそうな・・・。

0 件のコメント: