芥川賞受賞作を読もうと思い、手っ取り早くと買ってきた文芸春秋。そこに「100歳までボケない」って聖路加病院の日野原さんの対談が。順天堂大学の白澤さんて教授と。食事・運動・生きがい。長寿の秘訣教えますって。
亭主は運動そこそこ、最近サボリ気味。食事は十分事足りている。日野原さんみたいにステーキにありついたことは最近はないけれど。野菜、十分。ブロッコリーがいいと書いてあった・・・。
そして新聞広告。その白澤さんの本紹介。長寿社会の国民的ベストセラー「100歳までボケない101の方法」だって。
おもわずつぶやく。「100歳まで生きてどうするの」。
そしてAERAの広告。死ぬまでの「不足金額」。60歳から90歳までの30年間、サラリーマン夫婦1億と。1億でっせ。そんな金どうやってもありゃせん。雑誌買って読むのも恐ろしい。
片や長寿の奨め。片や長寿の恐怖。
歴史をみても人間長生きを願ったものらしい。徳川家康も長生きだった。傍に仕えた天海僧上も長生きだった。天海さんに秘訣聞いたら「屁をこくこと」と言ったとか。
今の静岡県か愛知県のある三河の国。そこに住んでいた百姓の満平さんはまさにギネスものだったとか。
194歳の時に幕府に召されて上京。秘訣を聞いたら「足の三里への灸」と答えた。そしてなんと天保15年永代橋改修祝いでまた招かれた時は240歳。後妻は132歳。同道した長男は199歳。孫は152歳だったとか。長男や孫にはそれぞれ健在の100歳以上の妻あり・・・。
これって豊川市の資料館の中に残されている史実なんだそうです。
やはり長生きっていいことなのかな。こんなに年寄りが虐げられており、どんんどん増えて行って国家財政を圧迫しているのに。
どうすりゃいいのか。なんだかわからぬ長寿話し。
2011年2月13日日曜日
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