2011年2月8日火曜日

力士に群がる”衆”やあはれ

大相撲八百長問題。これ以外に話題はないのかと言いたくなるくらいに連日の報道。画一的報道、画一的解説、コメント。まるで鬼の首をとったような集中取材、集中報道、ヒステリックな非難、非難。けしからん、けしからんって。

前にも書いたけど大相撲に八百長が無かったなんてシラ切って言ってる人、どういう神経してるんだい。八百長が良いとは決して言わないけど、当たり前と思っていればそれでいいこと。興行なんですよ。国技なんて言ってるけど。

この件に関してだけは石原東京都知事に一票。以前も八百長を書いて物議をかもしたけど。「当たり前としてあった。その前提で楽しめば良い、フアンは」。

八百長に関しては「寛容」であった時代もあったし。今のような時代になってマスコミこぞってけしからん、けしからん報道。国民全部がそう思っているような報道ぶり。これじゃとてもじゃないが場所は開けない。言い訳程度に残念がる人の声を電波に乗せたりしてるけど。

それにしても、大相撲だけじゃない。他の事件でもそうだけど、なんであれだけ大勢の報道陣と称する衆が群がってくるのか。

力士一人一人つかまえてマイク突き出し、大声で「何か言え」みたいな。これも取材って言うんでしょうけど、取材じゃないよ。自分の大声、詰問調の怒鳴り声を電波で流して何だっていうの。「ボク達、ワタシ達頑張ってます」って事かい。デスクに対する”証拠開陳”かい。群がる輩がなんか哀れにみえてくる。

一般的に言えば取材という名の”暴力”。なんか一言、一言って。もちろん政局時に小沢に群がる輩とて然り。囲まれてなんか言うわけないでしょうに。

売り上げ悪く、コスト削減なんて大声で言われているはずのマスコミ。でも、まだ人は余っているかのよう。

石原慎太郎が八百長を書いた時、横綱審議委員長やっていた作家の舟橋聖一はこう言ったとか。「相撲には物の哀れってのがあるんだ」と。名言ですな。で、慎太郎も矛を収めた。

しょっきり相撲だって観客は喜ぶ。どんな八百長が展開されるのかって思って見るのも一興。観客はその程度の「寛容」さを持っているかも。

知らぬ存ぜぬの親方衆の態度にも合点がいかぬ。相撲記者の腰抜け節穴ぶりも情けない。知っていたにも拘わらず。いつしか正義の味方。

タイガーマスクにうつつを抜かしたかと思えば、八百長有れば全員一斉に正義の味方。話題にならないからタイガーマスクは消えちゃったかのよう。

追及すべき巨悪はもっと他に有りかと。

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