東北新幹線下り線。那須塩原駅近くの田んぼに、さびれたように立つ看板。
「首都機能を那須野原へ」。もう何年立っていたのでしょう。もしかしたら今も立っているかもしれません。
首都機能移転。日本列島は大いに沸きました。懇談会や審議会が設けられ、日々ニュースとして伝えられ。候補地が絞られると大騒ぎ。
1990年の国会決議がきっかけ。折からのバブル、土地高騰。拍車をかけ。99年には審議会が候補地決定。
「栃木・福島地域」「岐阜・愛知地域」「三重・畿央地域」。
福島県は沸きに沸きましたね。駅には垂れ幕、看板。街中にも。誘致活動も。お祭りも。
阿武隈山系岩盤強く地震の心配なし。当時の県知事さんはよるとさわるとこの話ばかり。
東京から最低6万人が移住すると。
そしてバブル崩壊、景気低迷。話しはしりすぼみ。いつの間にか話題にもあがらず。マスコミも触れず。都市機能の一極集中排除ってのがお題目。今は地方分権論しきり。金、金。この分権だって言われ出してから久しい。
飽きやすいのか場当たり的なのか。
今年中には国土交通省の中にあった首都機能移転担当の部課が消える、無くなるという話。県庁にあった担当課もなくなりどこかの課の隅で間借り。2~3人がいわば“残務整理状態”とか。
あの騒ぎは何だたのか。踊りに踊らされ、舞いに舞わされ。
候補地とされたところ、乱開発されなかっただけでも、途中で廃墟を作られなくてよかったのでは。
人騒がせな政治家、行政。定見無き平成の日本列島改造“論”。
こんど新幹線乗ったら居眠りせずに目を凝らしてみますね。あの看板が風雨に、日月にさらされてどんな姿になっているのか、あるのか無いのか。
2011年2月20日日曜日
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