2013年5月12日日曜日

本末転倒ということ

今日は「母の日」だという。カーネーションがその代名詞。
津波で流された宮城県の名取市はカーネーション栽培で有名なところだった。

復旧したハウスで色とりどりのカーネーションが花を咲かせていると思う。

多分、「輸入文化」であろう母の日。子供の頃、母のいる子は赤。いない子は白と区分けされていた。それが何を意味していたか・・・。

その日だけの「感謝の日」。なんとかの日って、どうも主旨が本末転倒のような気もするが。ま、へそまがりの駄弁と。

「筋道がきちんとしていないこと」を指して本末転倒という。「肝心なことを忘れて、つまらないことにかかわっている」という意味でも。

原発事故、未曾有の事故。それは日米同盟を破たんさせるようなものだった。
あの時の日本政府の対応にいかにアメリカ政府が怒り、困惑していたか。
あの事故は単に日本の原子力技術が“敗北”したということだけで済まされるものではない。日本と言う国の社会構造の問題点を限りなくあぶりだし、この国の脆さを世界に露呈したということに他ならない。

尖閣をめぐる問題も、日韓関係をめぐる問題も、その日本と言う国の弱さを見透かしてやってきていることとも思える。

あれから2年2カ月経った今でも、あの現場は当時と変わっていないのだ。
相変わらず、現場は高線量。
その場しのぎでやることは、瞬く間にぼろを出す。「汚染水」の問題でもそうだ。
もし、汚染水漏えいという事象が起きなければ、敷地内に流れ込む、自然現象としての地下水を、井戸を掘ってくみ上げ、海に流すと言うことに誰も異を唱えなかったはずだ。

作業員の確保に全勢力を注いでいれば、不当労働の問題だって起きていなかったのかもしれない。

やることすべてが後手、後手。結果論だが、結果論が成立してもおかしくないのだ。

とにかく何にも収束していないということ。その「事実」を、最早、国は忘れてしまったということなのだろうか。

予見し難いことの連続があって、これからも何が、どういった障壁が起きるかわからない。
足元の始末が何にもついていないのだ。

核と人類は共存しえない。暴走したら止める手段もない。避難させられた住民に対して、まともな対策、対応を持ちえない。それらは「ウクライナ」で見聞したはずなのに。

なんで、原発を他国に輸出するのか。首相の後に付き従っていった原発関連産業の親方達。死の商人を、後始末も出来ない輩の顔、顔。

輸出する原発は「絶対安全なもの」だという。福島とは違うと言う。構造の問題では無い。技術の問題でもない。核は制御出来ないということを日本は実証したのだ。

原発を輸出し、関連産業が潤い・・・。それが経済外交というものなのか。
身の始末も出来ていない国がそれを輸出する。そんな馬鹿げた話がまかり通っているということは、この国の「品位」を著しく下げているということにならないのか。

まず「足元を固める」ことになぜ専念出来ないのか。

人心は惑わされ続けている。

区域が再編されて地域では、やがて中間貯蔵施設受け入れと言う“難問”と向き合うことになる。

弱い者いじめもほどほどにしろよ。

賠償義務は東電にある。そういうなら、政府の、国の施策を東電が受け入れざるを得ない。言うとおりにするという法律を作れよ。完全なる賠償責任を東電に負わせ、住民が納得できるような仕組みを作れよ。仮に時限立法でもいいから。

事、賠償問題に関して東電はずるすぎる。なにやかにやと言ってカネを出し惜しむ。

収束宣言ではない。「帰れない宣言」を出すべきだ。

新たな町を作るべきだ。新たな住居を提供すべきだ。これ以上、あの「仮設住宅」なるところで人を死なせてはならないのだ。

民草を思う。それを一義的に解決する。それが「国」というものの要諦だ。民があって国がある。国があって民があるのではない。

すべてが本末転倒という言葉に収斂されているような思いにて。

それにしても、なんで安倍ちゃんはかほどにマスコミ人がお好きなんだろう。
そしてマスコミ人は、なんで喜んで馳せ参じるのだろう・・・。

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