2013年5月11日土曜日

同潤会アパートのこと

関東大震災後、東京の“復興住宅”として建てられた建築物に同潤会アパートがあった。

実にモダンな建物だった。

よく知っているのが原宿表参道にあった青山アパート。子供の頃、自転車でその周りに行った。
そして代官山アパート。知人が住んでいた。時々行った。

同潤会アパートはなぜか蔦で覆われていた。それが独特の雰囲気を醸し出し、青山アパートの通り側は、あのケヤキ並木。
そこで開業していた治療院によく通っていた。

建物とは不思議なものだと思う。あの同潤会アパートは、その地域の“象徴”であり、それが、その街の雰囲気を決めてさえいたように見えた。

古い建物だ。そりゃそうだ。大震災直後に建てられたものだから。しかし、その中に入ると、なにやらカビ臭いような匂いと雰囲気、それがかえって、そこに住む人や訪れる人を和ませていたような記憶がある。
たしかに狭かった。しかし、その狭さがかえって良いような。

戦後の高度経済成長時、全国にいわゆる団地なるものが続々と作られていった。
形は似ている。2DK,3DK。鉄筋コンクリート。でもどこかが違っていた。

表参道の青山アパート、一階は「お店」だった。居住するのは2階以上だったか。
治療院の窓から見える光景。包み込むように伸びているケヤキ並木。当時もちょっと思ったけれど、今、あらためて思う。あんな仕事場があったらいいなと。

同潤会アパート、それは、大震災後、壊滅状態になった東京の復興のシンボルだった。内務省が多額の予算を投入し、財団法人同潤会を立ち上げ、多くの建築家が設計や都市計画に参画して作られたもの。
震災から立ち上がるための礎でもあったような気がする。

時を経て、それも老朽化が進み、建て替えを迫られ、先日解体がはじまった上野下アパートでその「歴史」を終えた。

馴染みのあった表参道。その大部分は「表参道ヒルズ」という大商業ビルに建て替えられた。その片隅に復元された「同潤館」が残されている。
往時と違わぬ光景で。

東京大空襲。原宿も軒並み火災にあった。その中に親戚の家もあった。同潤会アパートは戦火を逃れている。並木が類焼を防いだというのだ。

過日テレビで見た上野下アパートの“最後”の様子。一階で50年間理髪店を経営している70代後半の美しい女性が登場していた。
訛りがある。まさしく福島訛りだ。そう福島県から東京に嫁入りしてきた人だと言う。立て直されたその地のビルに入居し、理髪店を続けるとか。

思い出話しや、懐古談に浸っているわけではない。

同潤会アパートは国の予算とともに、寄せられた義援金をもとに建てられたものだという。“善意”は後世にまで名を残したということ。しかも、ある種の文化遺産として。

被災3県で言われている「復興住宅」。ほとんどが手つかず。

同潤会アパートの東北版って出来ないのだろうか。いや、やるべきだ。
多分、動き出している建築家もいるのかもしれない。

1階は商業施設。半分は車いすの高齢者用住宅。上の方は比較的若い層。その建物を中心にして道路が放射線状に延びるような都市計画。

昔の長屋と近代風な機能を兼ね備えた住宅。当然集会場付き。一階には診療所も、歯医者も・・・。
長屋では住民同士の会話が成立していた。そこに「コミュニティー」が出来ていた。建物の作り方いかんでは、それも可能だ。

同潤会アパートの設計コンセプトやその後のあり様は復興住宅建設への大きなヒントを持っている。

狭いながらも楽しい我が家。この歌は仮設住宅には全く似合わない。その歌を口ずさめるような集合住宅。

政府の予算を、流用無しで振り向ける。何処に行ったか行くのかわからない全国から寄せられた支援金を用いる。

やって出来ないことではないと思う。それを「成功」させ、東北を、一つのモデル町とする。
ちょっと歴史に学んでみれば、もっといい考えも浮かぶかもしれないのかもと。

蔦に覆われた復興住宅。道路に沿って取り囲む畑や田んぼ。それを守るかのようなケヤキ並木。出来ないはずは無いと・・・。

今日で、2年2カ月。

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