福島県は、明治時代に吹き荒れた「自由民権運動」の発祥の地の一つである。
藩閥政権の明治政府に異を唱え、憲法の制定を求め、議会の発足を求め、基本的人権確保の狼煙を上げた地でもある。
浪江の苅宿仲衛、三春の河野広中・・・・。喜多方事件という“流血事件”をも起こしながら戦った人達がいた。
きのう福島県議の在り様を批判した。知事とともに。
きのう参院選に向けての政策取りまとめのために自民党の全国政調会長会議なるものがあった。
どうも沖縄と福島の県議は異質の人であったようだ。中央の政策に、公約に異を唱えたから。
党本部の公約はこうだ。
「安全が確認された原発については再稼働を目指していく」。
福島県連の太田光秋政調会長は言う。
「県内にある原発の10基全てを廃炉にするのが県民の総意だ」と。
再稼働容認論には軽々に乗れないということだ。
「福島県連として出す地域版の公約には10基廃炉を明記する」とも。
安倍内閣の閣僚でもある森まさ子参議院議員はどう受け止めるのか。本部と地元の間で苦悩するであろうことが手に取るようにわかる。
福島県連の意向に本部は当惑気味だという。「地域によって抱えている事情が違う。齟齬がでてしまう」と。
そして新聞の見出しではこうなる。「自民、地方と溝埋まらず」と。たぶん、その溝は将来も埋まることはないであろう。
どうやら気配としては「公約」の中には原発問題は入れず、政策集とかいう“付則”みたいなところに再稼働を書くらしい。
参院選の公約に書かれない「原発問題」。それはフクシマを無いことにしようとする、無かったことのようにする、忘れようとする「政治」なのだ。
かくて原発問題は参院選の争点から消える・・・。
自民党福島県連が総意で、全員が本心全基廃炉と思っているのかどうかはわからない。県民でもそうだ。福島県民の中にも再稼働論者はいる。
県紙二紙も、中央紙の県版も、宮城の河北新報も、参院選に向けての企画をやらねばならない。原発問題を“争点企画”としてどれだけとりあげるのだろうか。
県内の首長で、最初に「全基廃炉」を言ったのは郡山の前市長原正夫だ。郡山に及んだ放射性物質への対策。避難民の受け入れ。
三春に多くの人が避難してきた。三春は物理的に受け入れ不可能になった。三春町長は原に支援を依頼する。原はとりあえずユラックス熱海に600人を収容するよう手配する。やがて野球場も避難所に充てる・・・。
その人達を見ていて、その渦中にあって、廃炉という言葉が出るのは当然だ。
県議とて、自民党県連の人たちだってそれを見た。知った。苦しんだ。
何の対策も打ち出せなかったのは誰だ。誰何するのもおぞましい。
原発の安全神話は崩れたと誰しも思う。絶対安全は無いはず。しかし「政治」は再稼働を求める。
「フクシマ」だけは再現させてはならない。
自民党は比較的しっかりした組織政党だった。中央と地方に出来た齟齬。
ならば、福島は「福島自民党」という新政党を立ち上げてはいかがか。
健全な保守政党として。維新なんていう「まやかし」ではなく。
自由民権運動の士のDNAを持ち合わせているはずだと思うから・・・。
しかし、見聞きする限り、参院選に対する県民の関心は低い。なぜか。
「信を置くべきもの」として政治を見られなくなったからかもしれない。
その“実態”を嘆く・・・。