きょうは沖縄本土復帰の記念日だという。41年前、1972年に復帰した。
新聞にある記事が載っていた。
沖縄選出の衆議院議員、照屋寛徳氏のブログにこう書かれているという。
「沖縄、ついにヤマトから独立へ。独立を口にするのは悲しいが、それくらいの気概は持ちたい。独立論は国民が国家に大事にされていないことへの意義申し立てだ」と。
「独立」という言葉には敏感に反応する。3・11後の東北に対するこの国の政府の対応を見ていて思わず書いた「東北独立宣言」「吉里吉里国独立」の話し。
そして「福島独立宣言のすすめ」などを。
現実にあり得ることではないが、あってはならないことだが、まさに“気概”として東北人は持つべきだと書いた。言った。
たまたま、昨夜の塾で「ヤマト」の話をした。「大和」の話を。
出雲大社の60年ぶりの遷宮。そこに使われたのが岩手県大船渡の5メートルに及ぶ松。その松が無ければ工事は完成していなかったとも言われている。その松は幸い津波の被害を逃れていた。
なぜ、出雲大社に岩手の、東北の、陸奥の、蝦夷の松なのか。歴史が結びつけた「縁」だと思う。
出雲弁というのがある。独特のイントネーションと独特の“単語”。もちろん方言には多々見られることだが。
竹下登は「歩く出雲弁」だった。彼と付き合っている中、出雲弁が耳に馴染み、知った。渡部恒三は「歩く会津弁」だった。そして両者には、どこか共通する“言語”や“イントネーション”があった。
たぶん、今でも一部では使われているだろう。小便の事を「ダラ」と呼ぶ。
出雲の地に、かつて「ワ」と称する民族が暮らしていた。漢字を持たなかった頃、「ワ」に「和」という字を充てた。
大陸から来た民族が邪馬台国というのを作った。ヤマト民族。
ヤマトはワを攻める。勢力拡充のため。ワは争いを好まない。有名な「出雲の国譲り」という逸話が誕生する。ワの国はヤマトに国を譲る。国を亡くした出雲の人、ワの民族の一部は、東北に移住した。海路で。それが蝦夷の原型。争いを好まない「和」の民族。
“合併”によって邪馬台国は、そのヤマタイ、ヤマトの名を付けた国を作ろうとした。それに充てる漢字を、大きな和の国が出来ましたということで、「大和」という名称の国が出来、朝廷も出来た。
大和朝廷は何度も東北の地に攻め込む。和の精神を持った国へ。
奪いたいものがいっぱいあったから。
鉄であった、奥州平泉の金であった。明治維新後は、多くの兵士を東北から徴用した。そして、戦後は若い労働力を東京に持って行き、とどのつまり。電力の供給地にした。
短絡的だが、東北は常に中央から“略奪”されて来たとも言える。
中央の思うがままに“利用”される。そこに沖縄と東北の“共通性”を見る。
かつて東北を襲った大飢饉。多くの家が娘を売りに出し、売られた娘は・・・娼婦となった。された。売るとはそういうことだ。
日本は単一民族国家だとされている。それは近代史の中での話だ。邪馬台国に端を発する大和民族、奥州の蝦夷、そして、南の琉球民族・・・。
「正史」に書かれない事の中から読みとれるのは、単一民族ではなく、いくつかの国が、民族がこの日本列島の中に存在していたということ。
国を亡くした「ワ」の民は一部は東北蝦夷となった。その他にも九州に渡り、「ハヤト」という民族になった。
琉球民族は、独自の文化を持つその民族は、はるか昔、大陸から来た民族なのか、ハヤトが移住した民族なのか。
東北独立を言った者としては、ヤマトの成り立ちを勝手に解釈している者としては、沖縄独立というその“気概”にあらためて敏感に反応するのだが。